2018年 9月 It’s not that easy being green みどりでいるのもそんなに楽じゃない

ハリボル ハリボル ハリハリボル ムクンダ マダヴァ ゴヴィンダ ボル

ハリボル ハリボル ハリハリボル ケシャヴァ マダヴァ ゴヴィンダ ボル

そうだ!賛同します!すべての苦痛を取り除いて自由を認めさせてくれるものに、神聖な親たちを祖先に持つ優しい顔をした子供たちに、その長い髪をたなびかせる神聖な祖先に、信じる者たちに喜びで感動のときめきをもたらす神聖なものに。そうだ!賛同します!

ハリボルとは「主の名を唱えます」の意味です。ボルとは唱和する、または語るという意味です。ハリの意味は「信じる者の苦しみをすべて根こそぎ取り去る神、その並外れて超越的な性質をもって信じる者の心・知性をも究極的にさらってしまう神」なのです。ハリとはヴィシュヌ・クリシュナの呼び名でもあり、ナラヤナでもあり、ヴィシュヌ・サハスラナマ(訳注:ヴィシュヌの別名1000個をリストにしたもの)にも見つけることができます。

ヴィシュヌ崇拝主義の文脈に沿ってみると、ハリというのは困難や妨害物、苦痛や束縛を取り除く者として一つのアイデンティティを見出せます。モニエル・ウィリアムズ氏によるサンスクリット・英語辞典では、ハリに対して2ページ以上にも及ぶ定義づけをしていて、そのまず初めの意味として、黄色や金色、緑など淡い黄褐色、赤に近い茶色、茶色に近い黄褐色、薄いみどり、そして緑色をおびたもの、と記されています。クリシュナは青・黒であるのに対し、ハリは緑または赤あるいは黄色か金色となっており、ハリはおそらくたった一つの色では表現するのが難しいのだろうと思われます。ハリの茶色とはシカのような茶色であり、ハリの緑は成長や豊穣の緑のようなものを表し、ハリの金色は太陽に光のような輝き、つまり宇宙的な自己の光輝を表しているのです。

みどりでいるのもそんなに楽じゃない

一日一日を葉っぱの色で過ごさなきゃならないし

赤とか黄とか金色とかになれたらどんなにいいだろうと思う時もある

もっとカラフルなものになれたらいいのにとか思う時もある

みどりでいるのもそんなに楽じゃない

他のありきたりのものに混ざって埋もれるように見られてしまうし

しかも見過ごされてしまうことだってあるんだ、だって君がみどりだとしたら

それは、水がきらきらして輝くみたいには目立ってないし

空の星みたいな輝きでもない

でもね、みどりってのは春の色なんだ

しかも、みどりってかっこいいし親しみやすいよ

それに、みどりって大きいんだ、海みたいに。大事なんだよ、

山みたいに。背も高いんだ、木みたいに。

みどりはそこらじゅうにあふれているんだと気づくとき

君はどうして?って不思議に思うだろう、でもね、どうして不思議なのかな

考えてみれば、僕ってみどりいろ、それでけっこう満足してるし、美しいんだ

そして思う、それが僕の望む姿なんだって (脚注1)

この曲で連想するのは自分のアイデンティティと自己価値を見つける旅路の大切さです。さらに私たちに連想できるのは、肌の色に基づく人種の不平等です。曲の最後の部分になると、歌っているカエルのカーミットは緑色の自分を受け入れて受容

するのです。これは私たち一人一人が抱える苦悩でもあるのです、生まれてきた状況を理解しようとする苦しみ、つながっている家族のこと、自分のものとして抱えてきた文化、生きている時代などの苦悩なのです。ハリはおそらく緑色のカエルでもあり、同時に他の多くの生き物の種や物でもあるのです、それは太陽、月、サル、馬、ライオン、ジャッカル、オウム、クジャク、、ガチョウ、ヘビ、風、そして火でもあるのです。(脚注2)ハリの望むところはすべてのものになること、すべての人になること、そしてそのアイデンティティは無限のものとして定義されるべきなのです。私たちはハリをすべての生きとし生けるものの中に見出します、ハリは単なるムルティつまり寺院の彫像ではないのです。「アハン ウッチャヴァカイル ドリヴャイ クリヤヨパトパンナヤナギェ ナイヴァ トゥシェ チト チャヤム ブタグラマヴァナミナ (脚注3)『私の大事なお母さん、たとえ十分な儀式と装具をもって崇拝したとしても、私の存在がすべての生きとし生ける個体にあるということに無知である人は、私の神聖さを寺院において崇拝しても、決して私を喜ばすことはない』」

このヴァガヴァタムの詩の一節に、すべての生き物の中にハリの存在を認める、とする主張が読み取れ、それはかなり平等主義的であるといえますが、しかしこの後に続く節の多くには、生物の足の数だとか、生物の種によって異なる感覚の数だとかを愚かにも比較して「すべては平等、でもさらにより平等なものもある」といった議論を展開しています。

人類はこうした伝統をさらに押し広げて、生物の種による違いや宗教の違い、祖先の違い、性別、肌の色の違いなどをもとに、一様に不合理なヒエラルキーを作り上げてきました。私たちは第二の、第三の、さらには第四の階級に属するとされるメンバーを、すべての文化の中に見出すことができます。こうした階級が勝手に決められ作られた図式に基づいてうまれ、経済的、教育的、その他の社会的欠陥という苦痛を生み出しているのです。インドでは、肌の色

が黒ければ黒いほど、そのカースト制度に直接関係してきます。合衆国では、アフリカ系アメリカ人とヒスパニック系が人口全体のおおよそ32%を占めているというのに、投獄されている56%の人々を構成しているという不均衡が起きています。(脚注4)どの国にもより下位の階級に

属するメンバーがいて、世界的に見ても女性や子供たちは真っ先にその犠牲になっています。もっと多くの事例を特定することもできます、アルビノ(訳注:色素が欠ける障害を持つ白化個体)、サハラ以南のアフリカにおけるインド人やパキスタン人、中国におけるムスリムの人、合衆国におけるカソリックの人やアフリカ系アメリカ人そしてネイティブアメリカンの人、トルコやイラクにおけるクルド人、イスラム諸国におけるユダヤ人、イスラエル(そしてほかの場所)におけるパレスティナ人、イスラム諸国における女性や少女たち、そして世界のいろんな場所に暮らす障害がある人、肢体不自由の人、身体に障害がある人たち。けれど、こうして完全に恣意的に(勝手に)差別される階級の、まさにその一番底辺には、昆虫や動物や魚たちが生きているのです。

動物たちは人間の食べ物となるという理由で差別され、その尊厳を最悪な形ですべて奪われるという苦痛を強いられています。彼らの苦痛は無視されるか、または必要悪として片付けられてしまっているのです。犬や猫たちは家族の一員として愛されるけれど、ときに家族が引っ越すとなるとすぐに捨てられてしまいます。魚釣りをする人たちは、魚は口の周りに感覚を持っていないから、釣り針に痛みなど感じてない、と言います。もちろんこんなことは完全な無知だから言えることです、しかしこれと同じように狡猾で意図的な真実の否定を利用して、ある特定の人種には機能的に文字読解力や慈悲の心に能力が低い人種がいるなどという訴えをする人もいるのです。

私が虫を踏んでしまっても、誰かを殺してしまっているとは感じません。しかしそう感じないのは何故でしょう?こうした感情は私を複雑な気持ちにします。完全にすっきりと、白黒を区別するように決断できる事もあるというのに。私たちが倫理的に下す決断のほとんどは多様な色を持っているのです。ヴィーガンたちは自分の生命を維持するのに植物の命を摂取しますが、、それは肉を食べる人たちよりも、より苦痛が少ないかたちで済むからです。「より苦痛を少なくする」という考えによって、植物と、感覚神経を持つ生き物や

痛みを感じる能力を持つ生き物たちとの間に一線を画しています。けれどこれさえも恣意的に勝手気ままに引いた一線でしかないのでしょうか?ほかの人たちが引いている一線とは、私とは違った一線でしかなく、きっとそれは各人の基準に基づいているだけなのです。ではそういう人たちは悪い人たちなのでしょうか、無知で、無意識なのでしょうか、あるいはそれは、可能な限りどんな手段をとっても登り詰めたい生存競争という山の頂上へよじ登ろうとする人類が、何千年にもわたって生得してきた区別でしかないのでしょうか?正しい決断を下し、ふさわしい行動をおこすために、私たちは自分たちにとって本当に望ましい結果とは何なのかを問わなくてはならないのです。

私たちにとっての望ましい結果とは何なのか、もしもそれが、緑色の生き物も黄色の生き物や赤色の生き物と同じように自由に暮らせる世界を創り上げることだとしたら、私たちはそれを注意深く推し進めていく必要があります、一度に一歩ずつ、複雑に絡みあって混乱し無知になってしまったものを解きほどくように推し進めるのです、地球という場所を共有してきた無限の生き物たちの多くの根底に、そうした混乱や無知はあるのだから。そしてその生き物たちはすべて無限のハリという神聖な寺院であるのだから。そうすれば必然的に「他者」という考え方そのものがアヴィディア、誤解であるという知識にたどり着けるのです。私たちは気づきをもって意識的に、まさにふるいにかけるように日々の倫理的な決断を下せるようになるのです、無意識の偏見は互いの人々やもっと大きな文化によって、恣意的にしかも見えない形で感覚神経に組み込まれてしまっているけれど、私たちはもうそんな無意識の偏見によって行動することはない、とはっきりと確信するのです。大事な決断を下す必要にせまられるとき、私たちは、正しい決断ができるようにと神に恩恵の祈りを捧げなければなりません。それは意識的な選択です、親切で慈愛に満ちた人であるための。

(著:David Life  翻訳:Rei Miho Ueda)