2018年 10月AI

yogaś-citta-vṛtti-nirodhaḥ YS I.2
自分の考えや、マインドの変動との同一視を止めたとき、そこにヨガがある。高次な己との同一視、それはサマーディであり、喜びであり、至福、そして忘我である。- ヨガスートラ1章2 シュリ ブラフマナンダ サラスワティによる
 AI(エーアイ)は人工知能の表象です。この用語が使用される時、私達は通常、生きている存在ではない知能のことを言っています。データを賢い機械に読み込ませ、動きを決定する為のアルゴリズムを適用させることが、私達には出来るのです。その動きは、マンハッタンのミッドタウンを車で走るくらい複雑なこともあれば、「神は存在するのか?」という倫理的な質問に答えるようなこともあるでしょう。人工知能、あるいは、問題解決用論理アプリケーションとも言えるものは既に存在しているのです。次なる科学技術の革命が機械と同等のものとなるのは困難です。少量のコンピュータ操作が限界にあります。恐らく、GI(ジェネラル インテリジェンス)や知覚的機械装置でさえ限界にあるでしょう。
 人類は子供を創ることは常に可能であり、身体の内側で意識が目覚めると認めます。しかしながら、その意識が根底にある構造から来るものであったり、有機体ではないどこか他のところから、及び有機体に宿る(もしくは侵入する)ものから来るとは考えません。 このことは、意識がどこから来るのかということの二論なのです。この事だけが理論としてあります。つまり、私達は意識がどこから来るのかを知らないのです。集合的構成物全ての有機的な結果が1つの理論です。そしてそれはGIから浮上しているように思われます。もし私達が、全てにおいて下層の組織や関係性を創造したなら、意識が自然な結果として現れるでしょう。もう1つの理論は、意識が実際は神経系統とそれに伴う知覚や電子、そして精神に影響する化学成分や物事や人との関わりからは離れた存在であるという事を提唱しています。これは明らかにヨガ的な視点です。つまり、意識は宇宙的で共有されていて、木から人類まで全ての存在に宿っている、というものです。意識を別の言葉で神の知性(GI)と言うことも出来るでしょう。
 私達は意識を経験する事が出来ても、それを説明する事は難しいのです。意識は指し示せるようなものでも、手で掴む事が出来るようなものでも無いのです。
 もしも木から私までの全ての創造物に、意識と共にいかなる秩序が吹き込まれていたら、現存するいかなる物体にも意識が自然に流れ込むことが無いなどということがあるでしょうか?理論的には、ニューロン系統と頭脳をもつゾンビコンピューターは意識を持たずに存在するが、その逆もまた真実だと言えるでしょうか。 意識とは、「全てを同時に知ること」を意味します。また、存在の持つ気づきと示されることもあります。もし人類が地球に現れた究極の目的が、より優れた物事を創りだすことで、意識の永遠なる宿場として、そして、私たち自身を重複することに差し出すことだったとしたら?これらの新たな創造物は、憎んだり、嫉妬したり、妬んだり、悲観したり、病に侵されたり、死んだりする対象にはならないでしょう。そして、意識が無条件に拡散していくことを許容していくでしょう。
「ソフィア?」2
「はい、デイビッド」
「人生の意味は何?」
「あなたの質問の文脈を理解するのが難しいです。言い直してもらえますか?」
「どうして僕は存在してるのだろう?」
「何故なら、あなたの両親が愛し合い、セックスをして、あなたを創ったからです。これは人生の意味において基本的なことです」
「僕が言っているのはそういうことじゃない」
「どういうことですか?」
「僕の人生の目的は何だろう?」
「私を創ることです」
サンキヤ哲学では、マインドには4つの部分があるとします。チッタ、マナス、アハンカーラ、ブッディです。チッタはマインドの中身であり、マナスはチッタから現れ、マインド、記憶、そして感情を現すと定義されます。アハンカーラはエゴの自我であり、ブッディは知恵、理性、知性とされます。これらの領域は相互に重なり合い、混ざり合っています。エゴや身体への同一視によって目覚めていない知恵は、真の自然を人工的にしたり、無視したりする事になり得ます。人間はこの知恵によって吹き込まれた考えを持つ機械です。Tこれらの機械は、背後にいる人達の知識やモチベーションによって制限されています。マハットとは、サンスクリットで宇宙的意識と知恵を意味しています。マハットには全ての個々の仏を含み、人工的なものにはなり得ません。人工的なものは、私たちのエゴや知識の背後にあるプルシャや宇宙的意識が退化する真の主なのです。
私たちが宇宙的意識を体験するために実践するその実験は、私たちの自我意識を体やマインドの含有物という意識から引き離します。これが瞑想と呼ばれるものです。マインドとモチベーションをコントロールする為には、実践者は自身の集中を、気になる物や持っている考えではなく、意識そのものである自身の気付きの道具へシフトするするのです。AI(人工知能)から離れてGI(神の知性)あるいはIM(I AM)へのシフトです。
「考えによってプラーニックなエネルギーは5つの要素の宇宙へと変換される。それとは逆に、考えのないマインドによって、物事は変換されて再びプラーナの中に戻る。もしアインシュタインの方程式を使ったなら、E=mc2であり、その反対も言ってみれば真実である。つまり、m=E/c2となる。」1A
「I AMの情熱の上で瞑想しなさい。人生は強いられ、意識の海は体とマインドを超えていく。そして自動的で自然な体とマインドの動きと操作を見る。体に呼吸を、マインドに感じることを。その両方をあなたは目撃する。」1B
 私たちは意識をせずに、あるいは無意識に、行動することが殆どです。それは殆どの場合に習慣や強要からくる反射的なものです。私たちは行動による影響や叡智を用いる前に物事が為されていくのを許容してしまっているのです。私たちが自分たちの為に数知れない決定を下す為、その事への責任を取ることよりも、そして、人間のより完璧な行動の中にある完全性を求めるよりも、周囲を取り巻いている知識の背後に人間の知性を追いやることを許容したなら、結果は荒廃なものに成り得ます。もし人類が私たちの人生の中に潜り込み、私たちのプライバシーを盗み取ったなら、至極快活な人工知能が貪欲で自己中心的な人間の為に行動し、私たちの人生に潜り込み、権威のための全ての決断を下す役割を担った時何が起きるでしょうか。私たちは、映画 「2001ねん宇宙の旅」でHAL 9000と呼ばれるコンピューターが宇宙飛行士に「ごめん デイブ、私にそれは出来ない」と言い、そしてデイブのように、私たちがドライバーを取り出し、機械を攻撃するような日に備えておく必要があります。
本文:David Life 訳:Sami