2019年6月 The Light of Knowledge 知恵の光


The Light of Knowledge 知恵の光
om. asato mā sad gamaya tamaso mā jyotir gamaya, mṛtyor mā amṛtaṁ gamaya. oṁ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ.オーム アサトマー サッガマヤタマソーマ ジョーティルガマヤームティヨルマー アムルタン ガマヤーオーム シャンティ シャンティ シャンティ
Lead me from the unreal to the real, from darkness to light, from death to immortality.Om peace peace peace.私を非現実から現実へ、暗闇から光へ、死から不滅へと導いてくださいオーム 平穏 平穏 平穏(from Bṛhadāraṇyaka Upaniṣad ブラダランヤカ ウパニシャッドより)

ほとんどの人は、人生の目的が五感の楽しさからもたらされる幸福を追求することであるかのように振る舞います。人間の心にどのような願望が生じたとしても、傾向はそれを満たすというところにあるでしょう。その欲求が満たされなければ、それは内的欲求不満と怒りにつながり、私たちが切望するものを手に入れることができたとしても、決して満足しない私達のエゴはますますそれを望むことでしょう。人類の歴史、貪欲、戦争、そして環境汚染を調べていくと根本的な原因、欲望にたどり着くことができます。
古代の知恵に満ちたヨーガのテキスト、バガヴァッド・ギーター(Bhagavad Gītā)では、頭の中で考えていること ‘サンカルパ(saṅkalpa)’が何であれ、それが欲求を生み出し、それを満たすために懸命になると言われています。人が望んでいるものが何であれ、それに向かって努力をするけど、その望みの目的を達成することもあれば達成しないこともあります。私たちがそれを達成すれば、それは欲をもたらすだけであり、何かがその達成を妨げるならば、それは怒りをもたらすでしょう。しかし欲望に終わりはありません。本当に欲しいものを見つけ出すために、人は自分の心を調べる勇気が必要です。しかし、個人の行動は、それが富、謝辞、名声、セックス、その他のものであろうとなかろうと、自分が切望していることを世の中に示します。私たちは、感覚を通して満足感を見いだしたすべてのものが、ついにエゴの渇き、‘アハムカーラ’を癒してくれると思いがちですが、実はそうではありません。そして私たちは皆、欲求が満たされた時でさえ、まだ不満の感覚があることを私たちの個人的な経験から知っています。そして、これは太古の時代からの人類のジレンマでもあるのです。
人がこれを理解するとき、それはヨーガの始まりと言えるでしょう。この段階で、至高の意識としての純粋な本性(すべてのヨーガの究極の目標である)を実現するために、真の内面の進化の道であるヨーガの道に入ることを意識的に選択することができます。それは自己認識(Self-knowledge)と呼ばれます。それは難しい旅ですが、不可能ではありません。経典(ウパニシャド、バガヴァッド、など)は、みんなが根本的に探し求めている自由、平和、幸福への旅の途中で迷わないための指針として役立つことができます。これらの経典は、自然と外向的になりがちな私達の心を浄化させるヨーガの方法を私たちに教えてくれますし、自己の本質は浄化された心によってのみ自身を明らかにできるので必要なのです。
ウパニシャッド(Upaniṣads)のうちの一節は、この原動力を次のように説明しています:「すべての悪い行動をあきらめられず、平和でなく、集中できず、心が穏やかでない人はこの知恵を得る資格がない」。 (Kaṭhopaniṣad1.2.24)これを聞くとヨーガを志している人ならみんなこれらの上記の内面的な資質を真に獲得するための努力をしなければならないことを理解するでしょう。さもなければ、その教えを知的に理解することは可能であってもそれが直接自分の経験(アヌバヴァ anubhava)で最高潮に達することはないでしょう。
バガヴァッド・ギーター BhagavadGītāには、心の サトビックsāttvika の特性が人を幸福、自由、そして自己知識に導くということを非常に明白に述べているセクションもあります。それらとは:謙虚さ、自尊心の欠如、非暴力、忍耐力、非偽善、純粋さ、固執、自制心の欠如、利己主義の欠如、固執、自分の所有物による極端な同一性の欠如、真実へのゆがみない献身、静かな空間を好み、常に真実という主題に従事すること(BG XIII.7-11)。これらは、真のヨーギに純粋な心をもたらす資質であり、これらの反対の資質は、ボーギ(bhogī:ヨーギではない人)に導くでしょう。ヨーガとヨーギという言葉はサンスクリット語の ‘ユジ yuj’ から派生したもので、「つながる」という意味です。それは、自分の存在全体を内なる真実に結びつけなければならないということです。単語 bhogī はサンスクリット語にルーツを置く ‘ブージ bhuj’ から派生したもので、「楽しむ」という意味です。ボーギ bhogī にとって主な関心は感覚の対象の楽しみなのです。
古代のプラナス Purāṇas(インドの神話)では、闇と悪の力はしばしば光と善の力に挑戦する非常に強い力として描かれています。光と真実の道は狭いです。純粋な、心を実現するためには、傲慢や誇り、自慢、他人への危害、自我崇拝、盗用、詐欺など、他の人がしていることの多くを行うことをしてはいけません。必要な努力をするためには、自分の心と動機を意識することが必要です。思うままに行うことができますが、より深く考えれば、その自由はまったく自由ではないことがわかります。
ヨギは解放のための強い欲求である ムムクスットバ mumukṣutva を発達させ、この欲求はやがてどんどん非常に強くなり最初は不可能に思われたことを実際に達成されることが可能になります。 そのとき初めてヨギは、自己実現に資するように自ら心を訓練し始めます。 それは、ヴィべカ、すなわち非自己であることと真の自己であることの区別が、最終的には自分の内面的な性質の実現に至る唯一のサトビックな精神であるからです。さもなければ、これらの崇高な教えは、夜中しか見ることができないフクロウに与えられた日光のようなもににすぎないことでしょう。 真実と光の道、ヨーガの道は、真の満足と幸福へと導く道であり、社会改良と福祉に貢献することでしょう。
By Anja Kuehnel (翻訳:Heeki Park)