Mar.2020 Stages on the Path

maitrī-karuṇā-mudita-upekṣāṇāṁsukha-duḥkha-puṇya-apuṇya-viṣayāṇāṁbhāvanātaścitta-prasādanam (パタンジャリのヨガスートラ 1章33節)心の静けさを保つために、ヨギは幸せな人に対して幸せを感じ、不幸な人に対して思いやりを持ち、高潔な人に対して喜び、不道徳には無関心でなければなりません。ージヴァムクティヨガ チャントブッグ 14ページより


私たちがスピリチュアルな旅に乗り出すとき、その旅の最終目的地が何かと推測しようと試みるかもしれません。私達はブッダの悟りの話を聞いたことがあります。禅僧の突然のサトリや、聖人や賢者が我を忘れ有頂天になった話を聞いたこともあることでしょう。私達も完全に悟れると信じてその頂上に到達するために自分自身に挑戦することもできます。 「突然、私たちはグルの誰それさんのようになります。」 私たちが生きるこの時代は、達成と黄金のパラシュート(特恵的退任手当)の欲望に満ちています。多くの場合、これらは日常での「普通の」経験の範囲外にあります。これらの物語は、私たちがより深く入り込まなければ、聖人たちの例でさえもおもしろみがなく気が抜けたまま私たちには無縁になりがちです。ヨガの修練はそれを助けることができます。


達成したい特定のアーサナもあるかもしれないし、練習の目的として一連のポーズを設定したこともあるかもしれません。多くの場合、特にポーズが私たちにとって過度に挑戦的な場合、そのポーズを重視します。 「こんな練習やあんな練習、又はこんな瞑想やあんな瞑想状態をマスターしたとき、私は良いヨギ又はヨギニになります。」しかし、賢明なチベットのラマ、チョギャム・トゥルンパ(Chögyam Trungpa Rinpoche)はかつて次のように述べています。「出発点に慣れる前に、より高度なことから始めるのは愚かなことです。」
それでは、悟りへの道の出発点は一体何なのでしょうか?


マットの上だけでなく、毎日、一瞬一瞬、道を歩むための私たちの足場を見つけ、作業プロセスを開発するためにはどこから確固たる基盤を築き始めることができるのでしょうか? パタンジャリが述べている「citta-prasādanam 心の安らぎ」を培うことを私たちの世界で体験する方法として利用しましょう。愛ある親切さ、又は友情と思いやりによってのみ、私たちはに媒介者になることができます。愛情と思いやりを持ってのみ初めて鳩の羽のように自由に飛ぶことができます。自由に、私たちはエネルギーの「レシーバー」だけでなく、エネルギーの「トランスフォーマー」になります。このプロセスで、私たちの道が地球にとって並外れて相互に有益になる可能性があることに気づきます。
どうすれば自分とつながることができ、他人とどのように関係していくべきしょうか?どうすれば他の人や物事との関係を浄化し始めることができるのでしょうか? 「ラムリム Lam Rim(進むべき道の段階)」のチベットの教えによると、その最初のステップは、「目覚めた心」を意味する「ボディチッタ Bodhicitta」を生成することです(「ラムリム」の基礎は、ブッダの教えを注意深く適用することから生まれました。その多くは、11世紀の彼の死から1600年後に消えていました)。このBodhicittaは、私たちの冒険的であるスピリチュアルな道の光なのです。


私たちは自分自身を大事にし、特別な重要性を置いてとても大切にします。他人については常にそのように感じるとは限らないと反省することもあることでしょう。この不均衡と区別することを理解して、それを反転させていく必要があります。とともに人や物事との関係を浄化することができます。私達は本当に幸せな人に対して自分事のように幸せを感じることができ、邪悪な者に対して無関心であることができるのでしょうか? ボディチッタBodhicittaを来たすことは平等を意味する「サマディSamadhi」 または「サマトワム Samatwam」を最も迅速な意味として思われてきました。 ボディチッタBodhicittaによってのみ、私たちが自分自身を見ているように他の人を見ることができ、彼らのために暗闇の中を照らす灯台となれます。悲しみや恐怖の時代に彼らが何を必要としているかを知り、すべてとの親密な知識と深い心と心のつながりを培うことが可能となるでしょう。


ボディチッタBodhicittaは、私たちの解放に対する最も重要な障害の1つは私たち自身の利益を他人の利益より優先する生存本能であると教えています。 「アートマ・スネハ Atma-Sneha 」と呼ばれるこの自分が一番大事という行動は、パタンジャリがヨガスートラ2章3節で語っている第2の障害(Klesha クレシャ)に似ています。「アスミタ Asmita」は文字通り「I-ness」に翻訳されます。 「私」が他の誰よりも重要だという間違った言い方です。
広範に渡るこのうぬぼれという幻想は、「私たちが本当は誰なのか」を知らない無知から生じています。他の人や物事との関係が浄化し始めると、自分自身が宇宙の縦糸と横糸のように織り込まれていることを思い出すことが可能になります。アラン・ワッツがかつて言ったように、「これを悟ると、私たちはエネルギーで満ちることができます。」
ほんの少しの苦しみさえ望んでいる人はだれもいません。自分の行動を慎重に振り返ると、他の人に幸せを「与える」と、最高の充実感につながる可能性があることがわかります。他の人の幸せが私たちの喜びであり、他の人の悲しみが私たちの悲しみでありますように。他人に喜びを与え悲しみを取り除くことで、愛情のある親切さと思いやりが私たちの心から自然に生まれ現れるようになります。
ボディチッタBodhicittaを説明するもう1つの方法は、それを「ジヴァンムクタ Jivanmukta」の道と称することです。それはこの人生で魂の解放を達成する人になるように努力するということです。地球とそのすべての生き物の相互利益のために、この美しい道を続けていけますように。


原文:Ian Szydlowski-Alvarez翻訳:Heeki Park