2020/5 

sarva-bhutastham atmanam sarva-bhutani ca-atmani iksate yogayukta-atma sarva-tra sama-darsanah BG VI.29

ヨギはいつでもあらゆる存在に神聖な自己を見る。

ジヴァムクティヨガ チャントブック19頁

動物愛護のヴィーガン活動家の友人が、お題についてより良い話し手になれる何かヒントは無いかと聞いてきました。「誰に話をしようと思ってるの?」と私は聞きました。「一般の人よ。典型的な、無知で小さなアメリカの街に住む人たち。ビールを飲んで、小型貨物自動車に乗って、フットボールを見て、狩や釣りが好きで、だいたい共和党ね」と彼女は冷笑しました。 「それで、その人たちと何が話したいの?」「ヴィーガンになってもらいたいのよ」「本気で言ってるの?」 「どういうこと?もちろん本気よ!」「分かったわ。ただちょっと確かめただけよ」「確かめるって何を?」「ただ自分の怒りをぶつけようとしているだけじゃないかどうかよ」「そうよ私はその人たちに怒ってるわ!」「その人たちと話をするのに、その怒りはあなたにとって価値があるの?」「んー、ヴィーガンのメッセージを伝えたいのよ。その人たちにもっと優しい人間になってもらいたいの」「それなら、その人たちを優しい人間として、神聖な人間として見ないと。」「いいえ!彼らは神聖な人たちなんかじゃない!彼らはヨガの人たちじゃないもの!無知で、愚かで、はなはだしくて、自分勝手で、偏屈で、大体が人種差別と家庭内暴力をするわ。ほんと人間のくずよ。」「その人たちを神聖な人たちと見ないと」私は再び言いました。「出来ないわよ!」「その人たちを、優しさと慈愛を持つことのできる神聖な人たちだと見ることが出来ないなら、そうなることをどうやって期待するの?」「しばらくそれについては考えるわ」影響力のある話し手になり、人々を、動物に対して敬意を持ち、親切で慈愛があり、動物を食べることを止める人間になるよう自分の言葉で動かすためには、まず最初に自分自身が喜び溢れるヴィーガンになることです。あらゆる人が、親切を施したり、共感したり、慈愛の対象となる機会を与えてくれている者として見ましょう。誰に対しても、その人が悟るために自分を必要としている、意地悪で、愚かで、慈愛に欠けている人物なのだと見ないこと。あなたが話しかけるその人が慈愛の無い人だとみるなら、どうしてその人がその人自身の慈愛を自覚すること出来るでしょうか。誰かに話す前に、自分自身に問いかけましょう。この人に、その人自身のことをどう感じて欲しいのか?その人の最高の潜在能力を見る大きな心を自分が備えているのか?そうなるためには、彼、彼女が振り向くためのスペースを与えるために、彼あるいは彼女に対するあらゆる否定的な考えを率先して放棄しなければなりません。誰かに話をする時、その人があなたの根底にあるのが軽蔑なのか、それとも尊敬なのかをその人は感じることが出来るのだと心に留めておきましょう。そして、それによってその人はあなたの言うことを聞き入れる事が出来るかどうかを決定するのです。彼ら/彼女らに話をするのは何がゴールだからでしょうか?あなたの怒りをぶつけたり、意地悪をしたり、自分の優性を誇示したり、ひどく叱りつけたりして、その人に罪悪感を感じて欲しいのでしょうか?あるいは、その人たちにより良く変わってもらうように、そして動物が苦しむ原因となる人間にならないように、そのための力を与えたいと本当に思っているでしょうか?本当にお肉を食べて欲しくないと思うなら、その人の中にあるその潜在能力を見て、その潜在能力に対して話をしなければなりません。活動家についての最も大きな誤解は、愛や受容よりも嫌悪と怒りの方が強い動機になっていると考える事です。 世界が自分に迫り、そしてそれに対して戦わなければならないと思う時、あなたは戦争に交戦しているのです。そして戦争は決して平和をもたらさないだけでなく、あなたの中の愛の力を動かすことも出来なくなるのです。ヴィーガンと肉食の人、良い人と悪い人、被害者と加害者、これらを分けた世界とすると、結果はより分割されたものとなり、私たちが探していると言う平和で統一された世界になりません。活動家についての一般的な誤解は、攻撃性のない支持の効力に対する困惑から始まります。攻撃性は支持に反して対立的で反抗的です。攻撃的でない支持の表現は、締まりが全く無く、無駄で、逆に攻撃性と結びつくような支持の方が効果的だ、という一般的な認識は誤解です。 自分の目的を効果的に押し通すために攻撃性が必要だとする考えでは、引出された変化も、あらゆるコミュニケーションのチャンスを密かに阻害し、コミュニケーション無しでは、問題に対して知的に解決することは不可能です。単に自分の怒りを表すだけでは、継続的で効果的な変化を作り出すことは出来ないのです。長い目で見た目標は、問題をより深くみるようになり、全てを含んだ解決策を打ち出すようになります。二人の人間が争うということは、個が異なっていると捉えることなのです。会話を始めるためには共通の基盤を見つける能力が不可欠です。そうするためには、自分が相手に持つかもしれない敵意や軽蔑を取り払わなければいけません。支持と同様に攻撃も行動、言葉、思考の形に現れます。 自分が彼ら/彼女らに対してどう感じているかをその人はいつだって感じることが出来ます。そしてそれがあらゆる相互作用を決定するのです。再度言いますが、もし、他者が潜在的に優しく、慈愛ある存在だと見ることが出来なかったら、どうして彼ら自身がそういう存在だと分かってもらうことが出来るでしょうか。相手の良さを思い、その人の幸せを望むことは、たとえ今はその人の考えや行動に同意できないとしても、それがスピリチュアルな活動の鍵なのです。 あなたの視点に賛同しない人と会話をすることになった時、自分自身の忍耐という場所から来たのだということを確信してください。ダライ・ラマはこう言います。「私は、誰であろうと会う人は古い友人として扱います」「このことが私に本当の喜びを与えてくれるのです。これが慈愛の練習です。相手が否定的であっても、本当に慈愛ある態度は変わることが無いのです。」そして、ハーバードの教授であるアーサー・C・ブルックスはこう言います。「もし相手に対する軽蔑の念を感じたら、相手に温かい心持ちを持つ練習をしよう。ドクター・マーチン・ルーサー・キングは、このことをこう言っている、「あなたの根底にある軽蔑の念を感じることの出来る誰かとの間に道徳的な基盤はない」」