2020/7 Compassion during Crisis _危機中の思いやり


yaṁ hi na vyathayantyete       puruṣhaṁ puruṣharṣhabha      ヤム     ヒ ナ ヴャタヤンティエテー  プルサム      プルサルサバーsama-duḥkha-sukhaṁ dhīraṁ        so ’mṛitatvāya kalpateサマ   ドッカ  スカム     ディーラム     ソームリタットワーヤ  カルパテー
幸福によっても、苦悩によっても乱されない者は、確かに解放/悟りに適している。 バカバットギータ2-15

この、物質世界において全ては移り変わって行きます。それは、いつも私達がのぞむ様に変化して行く訳では無いですが、私達は大混乱の渦中にいても、ヨギーとしてどの様に安定し、楽しめる事を学んで行けるでしょうか。幸福は私達の真の性質であり、不幸である事は本来の性質を否定する事であり、無知 _アーヴィッデッャー_ に光をあてる事になり、私達の一時的な身体とマインドが自分自身だと認識する事であり、本来の私達を誤解しています。この様に見て行くと、不幸である事に良い理由はありません。シャムダスがこういいました ” 私達のもっとも素晴らしい財産とは、私達が本当は一体誰なのかを覚えている事です”。永遠の自己/神との繋がりに気づく事は、私達の人生の目的です。
何年も前に、私はアリゾナの砂漠で行われている3年間のリトリート中の仏教の先生に、数日間ヨガを教える為に招待されました、彼が半年毎に授業をしている場所でした。私はそこで、彼の教えを聞く為に来た沢山の人達に会いました、何人かは NY Jivamukti yoga スクールでクラスを受講しているのを見た事がありました。彼らは私に気づくと、多少申し訳なさそうにいいました、”ヨガを愛しているけど、私には人生に起こる問題を解決する為のスピリチュアルな練習が必要だと感じるんだ”。私はそれを聞いて驚きました、彼らは日々の努力や挑戦の為のスピリチュアルな練習にヨガは最適ではないと感じているなんて。
最近、世界で起こっている出来事、特にアメリカ全土に広がるコロナ/Covid-19. と人種差別について、Jivamukti の先生は絶望的にこう答えました。”ヨガは全ての答えでは無い、今は内省する時では無く、行動をする時です。” 私は長年に渡って、他の危機が起こった時にそれに似た答えをヨガの先生と生徒から聞きました。個人的な危機(例えば愛する人を失った時)があった時、国の危機(911アタックの様な)があった時、世界の危機(環境破壊)があった時。
とてもよくある事なのですが、状況に圧倒されると、自分のコントロールが効かなくなり、まるでその感情が本当の問題に明確さや実践的な解決をもたらすかの様に、ヨガを窓から投げて怒ったり、悲しんだり、責めたりします。たった今、私達が向き合っている問題は、スピリチュアルな問題です。もしも問題があった時にヨガが何の助けにもならないと感じている人は、ヨガのコンセプトや練習がどう働くかに限界があると思ってるのでしょう。ヨガの意味は、Yui- 繋げる、一体化する、再接続、もしくは神/永遠の自己を思い出す事です。多くのヨガの練習が、この永遠なる源と再び繋がる事を助けてくれます。神の名前を唱える事、祈り、瞑想、アーサナ、いくつかをそばに。どんな行為も、もしも神を思いながら行うと、ヨガの練習になりえるでしょう、道で行進する事も、お腹をすかせた人へ食事を提供する事も病人を励ます事も。でも、怒りや責める動機で行為を行うと、神へと繋がる事無く、その人はエゴが強くなり、エゴに支配されるでしょう。エゴの性質はわがままで、思いやる事はできません。ヨガの練習は冷酷で容赦ないエゴを避け、自身への知覚を拡大する事ができます。思いやりを通して、神の存在を感じる事ができます。私達は思いやりを通して神を知る事ができます。思いやりはヨガ/解放/悟りへと導くヨガの練習です。この変化の過程はスピリチュアルな活動です。自分のささいな意図を放棄する事によって、スピリチュアルな活動、神の望み(私では無く、あなたが行った)の為の道具となっていきます。瞑想もしくは考察のスペースに、ダルシャン/視点/ 視る力を持つ事ができる。自分の批判力を超え、黙って聞く事ができ、その状況の中でどう思いやりのある返答が出来るのか見つかります。Devdutt Pattanaik, 彼のバガヴァット ギータのコメンタリーの最初の章の中で、ヨガのダルシャン/視点を持つ様になるためについて書かれていました、思いやりを通してクリアな視点が持てる、”世界は批判力が基盤となり、渇望を引き起こす、人生は双方が被害者の様に感じる戦場となっていく、皆んなが全てにおいて勝者となりたがり、常に誰かが負ける。” 批判力によって、世界は2つに分けられます、良いと悪い、無罪と有罪、汚染と清潔、抑圧者と抑圧された者、特権を持つ者と、力の無い者。ダルシャンにおいて、視る者は、原因とその結果で出来た流動的な世界、そこにはそんなに分別がない。

観察によって生み出された洞察が世界を作り、私達は全ての存在の飢えと恐怖を見る事で優しい気持ちが出てきます。 人生は舞台上でのパフォーマンスになります。もし貴方が、人の恐怖がヒーローや悪役や被害者を作っている事に共感出来たら、貴方はダルシャンを行ってる事になります。思いやりと共に、貴方と世界を分けている境界を乗り越える事が出来ます。ネガティブな感情、怒りや悲しみ、混乱、失望、非難する事は、その人の現実を見る視点を曇らせ、落ち着きを持って行動をする事ができなくなります。落ち着きを持つ事によって、明快な解決策や新しい方向性に気づく事が出来ます。何千人もの人々が全国に広がるウイルスによって死亡し、他では仕事を失い、ひどく虐待され、色が違うからと謀殺され、こういった時に怒りや悲しみといった反応が出るのはとてもノーマルです。人がこういった感情を持つのはノーマルですが、ヨギーはネガティブな感情にそそのかされても抵抗するべきです、それは観察するのとは反対の力を強めてしまうからです。ヨギーはサムサーラの存在に簡単に満足する、ノーマルな人ではありません。ヨギーは、Jivamukta-解放された魂に興味があります。
その時に、どうするのか?問題があった時にどういう行為が適切なのか?貴方はまだ抗議の為に通りへといくのか?貴方はまだ、優しい世界を願うのか?そうです、もしも貴方が怒りや好みを乗り越えて行きたいと望むのであれば、パタンジャリはこう勧めます、ヨガスートラの第1章33番、貴方が苦しみ/duhka を持つ人に出会う時、思いやり/karuna と一緒に会いましょう。思いやりによって解放/悟りが生じます。エゴというカプセルに包まれた、小さな自己の限界の先を見ましょう。では、思いやりとはなんでしょう?それは同情や共感と同じなのでしょうか?違います、同情は他者の痛みを認識します、共感は他者の痛みのみを認識するのでは無く、自分自身の事の様に感じる事です。思いやりは、同情と共感を含みますが、もっと上を行きます。思いやりのある人は、他の人の痛みを認識し、その痛みを感じます、そして和らげる為に何か働きかけます、貴方が他者の痛みを和らげる事は、貴方自身の痛みを和らげる事が出来ると理解しています。ヨガの練習は、練習者の思いやりが育つ様にデザインされていて、思いやりが意味するのは、対立を生み出す様な全ての偏見や他者意識という幻想を溶かしてくれます。
思いやりの練習をする人は、結果として、それがよりよくなっていき、謙虚さが育って行きます。我儘なエゴから遠ざかって行きます。謙虚になるという事は、大地に近くなり、芝生の葉の様に控えめに折れ曲り、誰かに自分の役に立ってもらおうと期待するのでは無く、自分が誰かの役に立とうとします。エゴの要求を手放す事は可能ですが、練習が必要です。ヨガの性質は、奉仕者の一人となる事です。自分の為にでは無く、他者へ、そして神への。奉仕者として、貴方は貴方のベストを尽くして、貴方の行為の結果をコントロールする事へ関心を持つのをやめましょう。貴方は、貴方のベストを尽くしてあとは神に託しましょう。それが意味するのは、我儘な動機や結果を操る事無く行動をする事です。これは、Viragya が関係あります、ヨガの美徳である無執着です。 Bhagavad Gita は、ヨガとは完全な行為をいいます。もしも私達が危機がある時に完全な行為をしたければ、私達はネガティブな感情、怒りや悲しみ、非難を行為の動機にする事はできません。なぜならば、もしも私達が完全でない行為を行えば、その結果によって未来に苦しむからです。今この危機の時に、無私無欲の行為をする人々、苦しんでいる他者へ思いやりと謙虚さと共に対応している全ての人々はヨガに近づいています。彼らが本当は一体誰なのかを思い出す事、アトマン(内なる永遠の神聖な存在)と再び繋がる。私達がサービスを通して理解できるのは、私達には誰も助ける事は出来ず、役にたつ事のみができます。私達がサービスを行う様になってくると、ミステリアスな神の言葉であるヨガの教えを、理解できる兆しが始まります。思いやりのある行為を通して、神の存在が明らかになります。この出会いが発生すると、喜びとともに、恵と感謝の念を感じ、危機も人の役に立つ/サービスをする機会となります。このサービスをする事への喜びという気づきは、私の友人であるカソリックの牧師、Anthony Randazzo いわく、素晴らしい 奉仕者  。貴方がサービスを行う様になり、貴方の中心から、貴方という存在のルーツ、貴方の魂からサービスを行い、貴方のエゴからでは無く。貴方がより本質的な方法でサービスを行うと、貴方はより満たされて、貴方自信にサービスが行われる様になります。貴方が思いやりの井戸に落ちたら、限界がない事が見つかるでしょう。神の性質が愛である様に。神が貴方の精神性を思いやりと共に活発にする様に、貴方の行動主義はこの問題の最中にいても反発するのでは無く、より澄んだ安定感と喜びを持ち、他者の人生を向上させる事ができるでしょう。
シャロン ギャノン