2020/8 Prerequisites 必須条件


サ エヴァヤム マヤーテ ディヤ ヨーガハ プロクタハ プラータナハバクト シ メサカハ チェティ ラハシャム ヒェタド ウッタマム

最高神との関係性の科学がこんにち私によってあなたに伝えられるのは、あなたが私に対しての献身を捧げる者であり、私の友であるから。献身者であり友である、それ故にこそ超絶的なヨガの科学という神秘を理解できるのである。(バガバッドギータ4-3 ACバクティヴェダンタ・プラブパダ氏の訳文による)


バガヴァッドギータの始まりで私達が目にするのは、苦悩するアルジュナが心を混乱させ多くの悩みを抱えている姿です。アルジュナは彼の馬車の御者であるクリシュナに心を打ち明け、自分は戦地に赴くことはできないし、なぜ行きたくないかの理由もいくらでも述べることができると言うのです。彼は仕事を辞め、戦士という職業上のキャリアも捨てて、プリンスという王位も放棄して、負っている責任を小さくして、一人のヨギとして森で隠遁生活を送りたいと望んでいるのです。混乱した彼はクリシュナに懇願して、ヨガとはどんなものかについての説明を求めました。この時点でアルジュナは苦悩し、人生のどん底にいて、しかもどうしたらいいのかわからなかったのです。クリシュナに身をゆだねて助けを求めたわけです。そうして第4章の最初の場面では、クリシュナがこれに応じて「そんなに懇願するなら、あなたは私に献身する者であり、私の友でもあるし、あなたが私を愛しているのだから、いいでしょう、説明しましょう」と返事をします。


クリシュナがアルジュナに対してヨガの教えを授ける前に、二人の談話がなぜこれから始められるのかをわざわざ述べるこの場面、ここがよく考えるべき重要なポイントです。学ぶ立場の者(生徒)が準備ができたとき、受け身になれたとき、学ぶ意欲がわいたとき、そのときこそ教える者(教師)は知識を伝授できるのです。伝統的に、ヨガの教師達は自分の教えを変節することはありません。つまり教師達は生徒達が教えを乞うのを待つのです。このように生徒が教師に許可・認可を与えてから、教師は教えを伝授するものなのです。教師のことをグルであると認めるのは、生徒のほうなのです。


神秘的な教えが伝授されるために重要な資質が他に2つあります。それは愛と尊敬です。愛と尊敬は献身・奉仕における尊い功徳(くどく)であるからこそ、クリシュナはアルジュナが彼を愛し尊敬していることを認識して、アルジュナのことを「私に献身する者(帰依者)」と呼んだのです。教師と生徒が互いの魂で関係を結ぶとき、その中心に愛と尊敬があるならば、そのとき智慧が、そして同時に歓喜が、花を咲かせることができるのです。


クリシュナはさらに友情を必須条件であると位置づけました。「あなたが私の友であるから、この、ヨガという超自然的な神秘を理解することができるだろう」。私達はお互いが友として、お互いが一緒にいることを快適に感じ、一緒にいることを楽しむのです。友人との心温まる関係は、生産性のあるコミュニケーションを導き出すよい雰囲気を作り出してくれるものです。良い友とは信じられる人、建設的なあり方で真実を告げてくれる人、一番の関心を心に抱いてくれる人です。良い友とは、あなたが向上することや、あなたの質が高まることを望んでいる人、あなたをおとしめる人ではありません。良い友とは、あなたの欠点に目を背けることなく、その欠点を強調することなく、上手にあなたの良いところを輝かせることができるよう励ます方法を見つけてくれる人です。良い友とは、他人の幸福を願う人です。たしかに、世の中には良い友もいれば、悪い友もいます。悪い友は、あなたの永遠の魂にある良い部分を輝かそうと励ますことはしません。良い友は、あなたにとって本当によいものを望みます。霊的に結びついた友情は、サットヴァの質を醸成するのに重要です。お互いがそれぞれのアートマン(永遠の魂)のための友であるとき、その関係性はサットヴァ、つまり慈善・有徳に成長するのです。


クリシュナとアルジュナが得る関係性は、生徒と教師との理想的な関係として物語では描写されていて、その関係性がアルジュナを教え導く可能性をもっており、その教えによりアルジュナには永遠の至高の幸福に満ちた関係を神と結ぶことが示され、生と死という有形・有限の世界を超越する手段を与えてくれるのです。


私達の多くに見られる関係性のように、クリシュナとアルジュナの関係性は多重の層があり複雑なものです。彼らは家族・親族を通してつながっている関係です。アルジュナはクリシュナの妹スバドラーと結婚しています。アルジュナの母クンティーはクリシュナの父ヴァースデーヴァの妹なので、彼らはいとこであり義理の兄弟の関係にもなるのです。彼らは共に力を合わせます。クリシュナはアルジュナの御者であり、彼らは互いに親友であり、相棒でもあり、相談相手でもあり、一緒に旅をして多くの冒険を共に共有してきたのです。けれどそれ以上にアルジュナは彼自身を生徒として見ており、クリシュナを彼にとっての霊的な指導教師として認識して、クリシュナに教えを乞うていました。アルジュナは自分自身を謙虚にして教師に身をゆだねることが魂に心的高揚をもたらしてくれるとわかっていて、その準備もできていました。


教師に対する尊敬・畏敬の念をもってこそ、人は現実に対する認識を浄化することになります。この浄化という手段で、人の心は覚醒し、ヨガへの悟りに障害となる物(クレシャ)が、愛ある献身(バクティ)の炎で溶解するのです。この覚醒はヨガの科学であり、人が神とつながっていることを思い出させることに関係しています。人が神とつながる、それこそが人生で最も重要な目的なのです。覚醒への旅路は人の誕生から始まっています。あなたの両親はあなたの最初のグルなのです。両親への尊敬をもつことで、人の話を聞くとはどういうことか、謙虚であるとはどうすることか、受け身になるとはどういうことか、など学習に必要とされることを学びます。こうしたことが人生のうちで霊的なガイダンスを求めるときやグルを探すとき役に立つのです。インドにおけるヴェーダの伝統ではサンスクリット語で「マタ ピタ グル デーヴァム」というフレーズのがあり、人の一生で出会う大事な存在に対して愛ある尊敬・畏敬を醸成する一番良い順番として実践的な方法を伝えてくれる教えのフレーズです。ヨガの練習生がその両親を愛し尊敬すること(マタ:母、ピタ:父)はグルを愛し尊敬するようになるための必須条件であり、グルはその教えを通して、私達を神(デーヴァム)への道筋に導くのです。けれど、両親への尊敬については、セラピスト達も証言するように、最近ではあまり流行らないようです。大人になって年取った年齢になってもなお自分の両親について彼らの人生の欠点をあげ連ね非難する人がいるのも今はよくあることです。多くの人が、自分が生まれてきた家族に怒りを抱き、自分は罪のない被害者で、この事態から逃れる選択肢がなかったと言い張るのです。ヨガの仕組みが教えるのは、私達自身の過去のカルマという手段で私達がその特定の家族のもとに生まれ出たのだという視点です、別の言い方をするなら、私達は生まれる前に生まれてくる両親を自分で選んだのできたのです。ちょうど両親を選んだように、私達はグルも自分で選んでいるのです。


現代では、ヨガはその人気の高まりを享受しているとはいえ、教師と生徒の役割について多くの誤解・混乱がみられます。ヨガはビジネスになってしまい、金銭の授受になり、悟りの教えではなくなり、そのことが多くの現代のヨガ教師・生徒の関係性に多大な誤解・混乱をもたらす下地になっています。先生を尊敬することがクールでかっこいい、とは考えられていません。尊敬・畏敬は批判に取って代わってしまい、あら探し、非難、不満に変わってしまっています。ヨガ教師に反旗を翻すことが、ときに堅苦しい掟への服従を打ち破るオリジナルな(独創的な)行動だと賞賛を浴びたりしています。生徒たちは教師達に教えることに正義を感じているのです。尊敬してもいない教師のもとに留まる人などいるでしょうか?最近では(教師のもとに留まる理由として)もっとも一般的に有力な理由はおそらく金銭と名声でしょう。その教師のもとにいれば仕事を与えてくれ、その教師に関連して生み出される金銭があり、それによって自分では得られない社会に対するある程度の信用性がもたらされるのです。他に理由があるとしたら巧みな操作かもしれません。たとえば生徒の中にはタマシックな傾向に圧倒されていて、教師を巧みに操作したりコントロールしようとすることで自尊心を感じたり喜びを引きだそうとする人もいるかもしれません。もちろん、教師との別れにもそれ相応の理由はあります。過去何年にもわたって、多くの性的暴行の訴えのケースを公にされてきました。暴行は許容されるべきではありません。互いに愛と尊敬がある場所ならば、サットヴァの質・性質が関係性を方向付けるのです。サトヴィックな生徒・教師の関係性は、真摯に悟りを切望する基礎の上に築かれるものです、それは両者に他のどんな秘められた巧みな操作や動機もない関係性です。クリシュナとアルジュナの教師・生徒の関係性はビジネスの協定では決してなく、愛、尊敬、そして友情の上に築かれたものです。愛は心からもたらされるべきです、無理やりもたらされるものではないのです。誰かを尊敬することは、自分の心を開くことになり、そこに愛は目覚めるのです。尊敬とは、愛が生まれるための必須条件といえるのです。尊敬するという言葉respectの意味は見ること、または再度よく見ること、です。つまり深く見ることです。誰かをうわべだけの価値でジャッジする(決めつける)ことではありません。尊敬することで、私達は誰かの中にある良い面を見ることができ、欠点探しをしようとする気持ちを手放すことができます。愛と尊敬は、人が他人に求められる単なる美徳のようなものではありません。ただし美徳が霊的な関係性の中に現れると、その関係性はプレマを生み出し増大させる肥沃な土壌を容易に作り出せるのです。プレマは神への愛、最も高みにある愛です。人はプレマに魅了されると、神聖への愛、そのムードまたはバーヴァが、すべての生き物に対しての愛に溢れ満ちてくるのです。サンスクリット語では、これをサルヴァートマバーヴァとよび、人はアヴィディヤに捕まれた状態から解放されるのです。アヴィディヤが引き上げられると、ジヴァは自分は単なる身体心だけではないということを理解し、この理解によって、尊大なうぬぼれではなく、人をもっと謙虚にするのです。謙虚でいることはまるで勝利へのチケットを手にしているようなものです、そのチケットで魂はヨガを切望し、悟りへと導かれるのです。


ヨガの科学に興味がある人にとって、ここで伝えたいメッセージははっきりとクリアです、つまり自分の両親や先生に対して、愛と、尊敬と、そして友情を醸成するために、できることは何でもしてみましょう。人生をただ流れるがままに生き、愛と尊敬と友情を育むための努力もしないままで生きるのは、本当の幸福を手にするチャンス(機会)を無駄にすることになります。本当の幸福、それは神を思い出し追想することなのですから。


(著:Sharon Gannon 翻訳:Rei Miho Ueda)