2020/9 Reconnection 再び繋がり結びあう

ヤマ ニヤマ アサナ プラナヤマ プラティヤハラ ダラナ ディヤナ サマディヤヨ シュタヴァンガニ (ヨガスートラ 2:29)

禁戒 勧戒 座法 調気 制感 集中 瞑想 三昧、これらがヨガの八支則である (ジヴァムクティヨガチャントブック 16ページ)  

人生でヨガの教師に巡り会うという恵みを多くの人が持っています。このときの教師とはヨガをマスターしてヨガのプラクティスの技術やツールを教えつつ、同時にその人生においてヨガの哲学を具体的に体現して生きている人で、しかもヨガのゴールを達成しようと努力する生き方に刺激を与えてくれる人物です。こうした変革に必要なツールがヤマ、ニヤマ、アサナ、プラナヤマ、ダラナ、ディヤナ、そしてサマディです。これらのプラクティスが、自己中心的で自然界から分断されて生きる私達を、世界を変えるための素養を身につけて進化し悟った魂へと次第に変えてくれるのです。 

 世界に耳を傾けよう、あなたに語りかけているのだから。 
考えてみたことはあるでしょうか、一番最初のヨガ教師はいったい誰なのでしょう?最初のヨギ達が世界とか、この世界を超えた宇宙について学ぼうというとき、どこに教師を求めたのでしょう?おそらく自分の周りの世界を深く掘り下げて、そして自分たちと同じようにこの世界を共有している生き物や事物から学んだのでしょう。プラクティスそのものをじっくり眺めると、その起源についてヒントが得られるものです。そう考えれば、最初のヨギ達がヘビを見てブジャンガアサナを学び、ツルを見てバカアサナを、ホタルを見てティッティバアサナを、木を見てはヴリクシャアサナを、山の姿からタダアサナを学んだ、というふうに想定するのも納得がいきます。人生の意味を、自分の周囲にある世界が教えてくれると知ったのです。世界のあらゆる側面にグルがいることを経験したのです。彼らには世界と自然界それ自体との深淵で永遠の関係性があったのです。自然から学んだアサナはヨガの教えのエッセンスであり、それらを私達も体験することで、自然界の真実、現実、神の超越性について、学びを得ることになるのです。もしそうでなければ、ヨガのプラクティスは平凡でおもしろみのないエクササイズになってしまいます。実際、この世界のすべては、あなたがどんな目で見ているかによって異なった姿に見えるし、あなた自身のパワーによってマジックや神秘を目覚めさせ、世俗的なものを超越することもできるし、一方で、自己中心的で思いやりのない被害者として、狭い認識の世界にとどまることもできるのです。私達の心の持ちようによって、世界はその姿を私達に見せてくれるのです。  

  分断は問題に、つながりが解決に。
 1350年にヨギ・スワトマラマ師はハタヨガプラディピカを書き、ヨガのプラクティスに理想的な部屋について叙述しています。その部屋とは自然界を閉鎖した空間で、太陽の光も、風も、雨も、他の生き物からも閉ざされています。これはヨギを家畜化するような手法で自然界から切り離すようなものです。広い意味で言う大いなる文化から自然界の野生性を切り離すプロセスを反映しています。母なる自然に対して宣戦布告するようなものです。こうした戦争は何千年も前に始まり、人間が自然や自然構成要素そして動物たちとの関係を切り離して不和にするような世界が作り上げてきたのです。その結果、人類と自然界との間のギャップはますます広がり、自然界のティーチャーやマジシャン、ダンサーなどと出会う機会が失われてきたのです。さらにいえば、きっと空の飛びかたを学ぶことも。  

「サダナのための部屋はシミ一つなく清潔で、牛糞で拭き上げてあり、動物も虫もいない空間であるべきだ。小さなドアはあるが窓や隙間はないこと。外にはわらぶき屋根のオープンテラスがあって、井戸があり、周りはフェンスで囲うこと。この隠れ家の外観は心地よいものであること。(ハタヨガプラディピカ1:13)」  

窓は練習生にとって集中の邪魔になるものとして見なされているようです。動物や虫たちも気が散るもの、汚いもの、危険なものとさえ考えられていて、だからこそフェンスが必要だと書かれています。おそらくあなたが自分でヨガを練習するスペースについて言えば、清潔で虫や動物や天気にも左右されない場所であることに、もっともだと理解するでしょうが、同時に理解すべきことは、私達は日々の生活において、地球との共生のためにこれらの虫や動物や天気といった自然と自然元素が重要なものだということを、十分な時間をかけて改めて明言すべきなのです。壁を打ち砕いて、自然とのつながりをつくる、というのも同じくらい大事なことなのです。自然界との調和・統合はヨガのエッセンスです。そうでなければ私達は未知なるものに対する恐怖のうちに生き、自然界から疎外して生きていると気づくでしょう。過去において人類は、多くの障害に直面しながら、この世界を生きる難しさをただ克服するために絶え間なくもがき苦しんでいる自分自身の姿に気づくだけでした。だから過去の人類は自分の安全と保護のために、自分を取り囲む多くのバリアを作ったのです。過去のある時点で、バリアを築くことはそれほど緊急性のあることではなくなってきたのに、それでも多くが慣習・習慣として確立されて、私達はこうした保護層を自然に対して、そして自然の構成元素に対して、強化し続けたのです。私達の存在に革命を起こす時がきました、バリアを打ち砕いて、太陽の光を再び取り込み、すこしだけ後戻りして冷静になって、自然との具体的な形でのつながりを持ってみる時がきたのです。  

今日、私は森に散歩に出てみました。いつも感じることですが、森はとても平和で、守ってくれるところで、聖域のようで、もう一つ同時に存在する異なる宇宙のような場所で、省察したり熟考したりする神託を得られるのです。自然界はどこであっても怖い場所です。そのすべての恐怖は、未知のものに対する恐怖に根っこがあるのです。森や山、海にいて恐怖を感じるとき、それは未知のものだからであり、未知のものに対する恐怖を克服する一番の方法は、未知のものを知ることです。未知のものを知ると、わかってくるのはそこにはあなたがいるだけだということです!これはバックベンディング(後屈ポーズ)が多くの場合、怖い気分でいっぱいになってしまう理由と全く同じです。後ろにそると、どこに向かっているか見えません。ゆっくりとバックベンディングの未知のテリトリーに向き合えば、だんだんと、1ミリずつ、そのテリトリーを知るようになって、必然的に、怖かった未知のことは今や既知となり、もはや怖いものではなくなります。毎日のヨガのプラクティスでシャヴァアサナ、屍のポーズで練習を終わりますね。人類にとっては、形ある現世において死ぬというテクニックを練習するなんてまれなことですが、こうして形を喪失し、感覚を消し、構成元素を失ってみることを再現することで、未知の世界は既知のものとなり、恐怖は鎮まるのです。  

かつて過去のヨギ達は自分たちのことを自然界から切り離されて隔離された存在だと考えていました。そのことでグル・サクシャット、つまり私達の身近にいつもいる教師・ティーチャーに出会うことはより難しくなっていました。ハムサ、つまり白鳥とは、ヨギにとっては一つの大切なシンボルなのですが、それは白鳥が渡り鳥であり、かならず故郷に戻ってくる鳥だからです。現代では、私達それぞれが国境や、フェンス(囲い)や、宗教などで分断されています。窓のない壁に囲まれて、教師達とも切り離されています。さらに重要なことは、私達はいま、精神的にも霊的な意味でも、マジックが自然な生活の一部であった時代とは切り離されて生きているということです。私達は今、自然とのつながりを再び結び直そうともがいています。母なる自然との闘争を終え、自然界への恐怖心を克服しようとしています。ヨガは架け橋を築くのです、私達と、私達が失った遺産と、母なる自然とを結ぶ橋を。

(著:David Life 翻訳:Rei Miho Ueda)