2020.11

यत्करोषि यदश्न‍ासि यज्ज‍ुहोषि ददासि यत् ।
यत्तपस्यसि कौन्तेय तत्कुरुष्व मदर्पणम् ॥ 

yat karoṣi yad aśnāsi yaj juhoṣi dadāsi yat
yat tapasyasi kaunteya tat kuruṣva mad-arpaṇam
Whatever you do, whatever you eat, whatever you give as help to another, even your own austerities and sufferings, O son of Kunti, do everything as an offering to me.
Bhagavad-Gītā IX.27

クンティの子よ、あなたが何をするにしても、何を食べるにしても、他の人を助けるために与えるものは何でも、あなた自身の厳しさや苦しみでさえも、私への捧げものとして全て行いなさい
バガヴァッド・ギータ 9・27

人生の意味とは、全ての卑しい気持ち卑劣さを捨てることです。卑劣さが無くなった時、残っているのは優しさです。卑劣さよりも優しさを選ぶことは、意味のある人生を送ることです。私たちの人生の目的は私たちが誰であるかを思い出すこと、つまり、神と崇高な永遠の繋がりを思い出すことです。この記憶は、自己実現、目覚め、悟り、そしてヨガと呼ばれています。この目覚めは、魂が単なる別々にカプセル化されたエゴや人間の体と心ではなく、神が存在し生きていることに気づいた時に起こります。
意味のある生活を送ることは、人生を価値のあるものにし、私たちの人生に目的を与えます。神は愛であり、そしてその偉大な愛は私たちの内に、それぞれ生きているものの自我ように永遠の魂として生きています。スピリチュアルに目覚めることは、あなたの人生に神の存在を思い出すことです。バガヴァッド・ギータ・クリシュナは、この記憶を目覚めさせるための簡単な練習を提案しています。彼は言っています。「あなたがするすべての行いに私を思い出しなさい。私の名前を呼びなさい。あなたが何かを食べたり飲んだりする前に、まず先に私に捧げなさい。全ての行動を私に捧げなさい。そうすれば、私はあなたの人生に存在するでしょう。」これはあなたが意図的にあなたの肉体的存在をスピリチュアルにする方法です。あなたが神の記憶に従事する全ての瞬間、それはあなたの魂を神の愛に目覚めさせ、大きな愛を持って全てが可能になります。
ヨガの経典は、satcchiddānabda (Sat-chit-ananda)であると言っていますー真実、意識、至福ー実際にはほとんどが至福です。内なる神からの輝く至福で幸せな人は、自然と他のものに親切です。
彼らの喜びは、アートマン(自我)つまり彼らの永遠の魂から放たれ、溢れ出ます。彼らが他人と相互作用する際に、それらは磁気的に魂から魂へと引き寄せられます。彼らは他の者との深い繋がりを求めています。彼らは意地悪、厄介、冷淡、ケチ、断定的、自己中心的ではありません。それらは他の中心であり。彼らは思いやりがあり、友好的で誰に対しても暖かい心を醸し出しています。彼らの存在そのものが、あらゆる状況に幸福の確約をもたらします。幸せは可能であることを残された私たちに少し思い出させてくれます。ー 私たちも自分が本当に誰であるかを思い出すことができます。
経典の中でパタンジャリは、Avidyāがこの記憶の最大の障害であると語っています。Avidyāは無知を意味します。ー あなたが魂の神の至福を知らないか、もしくは忘れてしまい、神があなたの中にいることを否定しているのです。Avidiāは、魂を束縛の状態にし真の幸福の経験を感じたり経験したりすることを困難にする他の障害を引き起こします。
パタンジャリによると、あなたの本質の記憶に対する他の障害とは;Asmitā(利己主義や傲慢)、rāga(好きへの執着)、dveṣa(嫌いへの嫌悪)、abhinivaśāḥ(死への恐れ)です。ヨガの練習は、これらの障害を克服する為に役立ちます。
ヨガは、他の人や私たちの周りの世界と交流する方法を私たちに提供してくれる実践的な科学です。この方法は、私たちを恐れや不安から解放し、サムサラの輪から解放する為に、他者に対する行動を改善する為の提案を私たちに与えます。それを行うことで、そのサイクルの再生を引き起こすことがなくなります。Ahiṃsāは非暴力を意味し、他に人との関係を築く方法を見つけいたいと思う意欲的なヨギーへの最も優先的推奨事項です。行動する為の最良の方法は、彼らを傷つけないことです。これが、熱心なスピチュアルの練習する者がヴィーガン食を選ぶ理由です。肉や乳製品を食べることは、非常に残酷であり、卑劣なこと。思いやりのる食事を選ぶことは、卑劣さから自分自身を浄化し、優しさの流れとへ私たちを解放する為の大きな一歩です。私たちの行動は強力です。私たちが行ったことは何でも私たちに戻ってきます。私たちが他のものをどのように扱うかによって、私たちがどのように扱われるかが決まります。
私たちが実際に所有しているものは何もありません。私たちが実際に人生で持っているものは、他のものへの影響だけです。幸せな人とは、周りに幸せをもたらす人です。幸福は私たちの内に宿っているので、私たちが他のものを幸せにする為に関わる際、私たちはその幸福の井戸の中から汲み上げ、表面に引き上げて他のものへ利益のために放ちます。しかし、私たちはその過程で実際に幸福を経験します。ー それは私たちを通り抜けるようにして私たちを変化させます。それは私たちの中で存在する神様の贈り物です。私たちの生活が他のものの生活を向上させ、この世界に神の幸福が増すように生きることは、本当に誰であるかを思い出させる為のプロジェクトに関わるため。ー 神との繋がりと永遠の魂の尊さを思い出すことです。私たちの人生には2つの仕事があります:神を思い出すことと他のものへ優しくすることです。それらは相伴っています。
私たちが大胆に勇気をもって卑劣さを手放し、不満や非難、自分を犠牲者とすることを手放すことができれば、神の慈悲を感じる本当の機会があります。私たちは全ての瞬間に幸せを発見する冒険へと新たに乗り出します。私たちはこの上なく幸せで、楽しく、目的に満ちた意味のある人生を送っています。jīvamukta は、そのような解放された生活を送っている人を表すために使うサンスクリット語です。
文 Sharon Gannon
訳 Aiko Nagata