2020/12 Awareness 気づき・意識

ヨガス チッタヴルッティ ニロダハ 

(ヨガスートラ1-2)

 自己を、その思考や心の揺らぎなどと同一視するのをやめると、その時にヨガがそこにあり、自己の本質と同一視できる。それがサマディであり、幸福であり、至福であり、忘我の恍惚である。 

折に触れて何年間も、私はこのフォーカスのエッセイを書いてきましたが、今気づいたのは、いろいろな意味で常に「気づき・意識」について書いてきたように思います。
なにしろ「気づき・意識」は大きな課題でもあるので、この課題について様々なアプローチから取り上げてきました。
たとえばそれは「この瞬間」や「自覚」、「証人者としての意識」とか「最高神」や「アートマン」、「本質自己」や「内なる智慧」、「基本的な善良性」または「人の本来の性質」など、つまりは「愛」そのものについて書いてきたのです。気づきや意識があるからこそ私達はときに感謝の気持ちや慈悲の心に突然ハッとさせられ、美しいものを感じてドキドキしたり、神の愛が存在していることを感じて圧倒されるのでしょう。
気づき・意識は偏見を手放したときに心が経験する特別な状態です。
心にため込んでしまった生い立ちや環境を空っぽにしてもなお残るもの、それこそが取り除くことのできない内なる本質であり永遠不滅のものです。
この状態がチッタ ヴリッティ ニロダハであり、心の中であれこれ巡るラベリングしたりジャッジしたりする思考に、こだわることをやめた時に起きる状態なのです。 

 今回のエッセイの表題としてヨガスートラのこの一節を取り上げたのは、気づき・意識はいつも私達と共にありながらも、それは束の間の経験であることを示唆するためです。
ヨガにおいてはこれは基本的な教えです。
たとえば私達は自分の中に大いなる宝をすでに持っているというのに、その広大で汚れない宝は、私達が無知であるが故に作ってしまった障壁にブロックされていて、その無知から私達は分断を生む多くの思考を持つことになり世界を分裂・対立させてしまうのです。
そんな範囲にいては私達は「どちら側につくか」以外に他の道筋はない、という見方をするのです。
その行為が相手の側にとっての侮辱にあたるならば、私達の感情は硬化し、屈辱の感情は分厚い残渣(ざんさ)となるのです。
そうして偏見は掩護(えんご)され、気づき・意識はそんな偏見に欺かれてしまい、真実の光は鈍くかすむことになるのです。
侮辱されたという感情がバリアを作り上げると、二つに分かれた両極を一つにする一体化、つまりヨガは、実現しにくいものとなってしまいます。  

根本的には、気づき・意識は無限のものです。それは愛と同じです。
別のたとえでいうなら、人は選択的な愛で彼または彼女を愛し始めるけれど、次第にもっと大きな愛の状態に変わっていくものなのです。
同じように、一つの対象物に対する気づき・意識も、はじめは限定的であっても、いったんマインドがその対象物に取り込まれると、対象物はもはやその人自身と隔でられた別物ではなくなるのです。
時を経て人は、気づき・意識を通して、見ている対象物を自分の内に洞察力で見るようになり、さらに深いレベルでは、ヨガの実践において、目にする対象物を、常に普遍的で自分自身についての新発見をもたらすもの、として自己洞察できるようになるのです。 

 ときに私達は「大事なこと」だけに気づき・意識を向けてしまいがちです。
しかし「大事なこと」が通り過ぎて消えてしまえば、私達はむなしく取り残されるだけなのです。だからこそ謙虚な姿勢で、気づき・意識をささやかなつとめにも引き寄せるのが最良なことなのです。
もしも毎日の事柄を上の空な姿勢で行うならば、より大きな事柄に対して気づき・意識を身につけることはできないでしょう。

  気づき・意識は計りきれないほど完全なあり方でその姿を見せてくれます。だからこそ友人の心配をして救援物資を送ったら、ちょうどその友が絶望でいっぱいのタイミングであなたの荷物が届いたりするのです。
だからこそ人はパンデミックの時に公共の場所でマスクをするし、だからこそ人は冬の間に動物たちが身を守れるシェルターを提供しようとするのです。だからこそヨギはヴィーガンなのです、この星で暮らす何十億もの動物たちの苦しみやこの環境に放出される特有の暴力に、気づき・意識していることはもはや否定できないから。
自分自身の苦しみに気づき・意識をするからこそ、他者の苦しみを理解するし、そこに慈悲の心が育まれるのです。たとえば医者からの検査結果を知らせる電話を待っているとき、自分の不安が濃くなっていくことに気づき・意識するならば、「待たされる」という不安感に苦しむ人があることを思い、慈悲の心が沸き起こってきます。
もしも人が怒りでキレそうなとき、それに気づいて意識するなら、気づき・意識は怒りの感情を弱めてくれるのです。ほんの数秒でも人が感情の爆発する前に自分を捉えれば、感情の爆発やそれがもたらす結末は避けられるのです。一定のルーティン(慣習的な行為)に沿って行動すること、例えばアサナの練習で行う形式もそれに含まれますが、そうしたある種の決まり事が行動を制限するようなものでなくむしろ行動をサポートするような決め事ならば、気づき・意識をどこに向けるか、どう愛するべきか、どんな心配りをすべきかなどについて手近な実践の場面で私達に示してくれる助けになります。それはいうならば深遠なものと調和のとれた雰囲気とを縫い合わせていく作業のようなものです。

気づき・意識は私達の内にはじめからあるものですが、それを表に出すためには多くの練習実践が必要です。アシュタンガヨガの八支則は、意識が持つ明るい光を顕在化させるためにある統合的なアプローチです。人は決して非暴力の実践なしに深い瞑想状態に入ることなどできないし、瞑想の実践なしに自分が誰かを傷つけているかどうかを知ることは決してできません。すべてに言えることですが、支則のそれぞれが相互に依存しているのです。物質中心の社会に生きていると、ヨガとは、たとえば家とか車とか、すてきなナイスボディとか、成功や失敗、名声などのような束の間の「もの」ではなく、心の状態のことだと改めて思い知らされることで助けになります。気づき・意識は必ずしも「世界をどうにかして修繕する」というようなものではなく、私達が互いに心を配り相手を気遣う確実な手助けになるものなのです。
  
最後になりますが、気づき・意識は私達を今この瞬間に引き留めてくれます、それがあって私達は新しい心の状態で世界を観察できるのです。おもしろいことに、時を経て、実践を重ね、私達も歳をとるごとに、世界がさらに新しくみえてきます、そう、青かったバナナが黄色く熟れていく変化さえも、謙虚な驚きに満ちた出来事であるように。
(著:Ruth Lauer-Manenti)