March, 2021 SELF-INQUIRY 自己探求

オーム ブール ブヴァスワ
タッサビトゥル ヴァレーニャム
バルゴーデヴァスャ ディマヒ
ディヨヨナ プラチョダヤッ

地球、空間、天国。私たちは、輝きの源からの神聖な光に瞑想します。
それが私たちの心と考えを鼓舞させますように。
(翻訳:マノラマ ‘ガヤトリー・マントラ’)

人は色のついた心のレンズを通して人生を見ます。それに基づいて、たいていは自分自身のためだけでなく、他の人々の教義も確立させます。 私たちは多くの場合、政治的、科学的、宗教的、経済的、および食事に関する見解が含まれる信念を他の人と共有します。 しかし、それはまた、ほとんどの場合、人類の一体化ではなく、あるアイデアと別のアイデアを比較することで同じアイデアや理想を共有していない人々からの分離につながります。

私たちが世界に対して持っている概念は、心に原因を置いている感情的な愛着にのみ依存しています。これらの概念はすべて部分的にしか真実ではありません。なぜなら、1つの感覚器官、触覚のみで象を描写しようとした古代の物語に登場する生まれつき目が不自由な賢人のようにものを見ているからです。象の足に触れた男はそれを柱としてとらえました。 尻尾に触れた二人目は、ロープのようだと言いました。 胴体に触れた三人目の男は、それが木の太い枝のようだと思います。耳に触れた人はそれを大きなファンととらえ、牙に触れた人はそれが固いパイプだと思いました。 象の特定の部分に触れた人は皆、象が何であるかを知っていると思っていました。 しかし、全員が意見を交換したところ、理解は部分的な真実に過ぎず、それ自体が真実であることがわかりましたが、自分の考えだけに固執し完全な真実に到達することは決してありませんでした。

自己の性質についても同じことが言えます。 私たちが自分の心と知性を使って自己を理解しようとすればそれは常に部分的でしょう。 完全で真の知識を得るには、私たちの心の奥底への経験に偏らない問いかけを行うことによって、心と感覚を超えなければなりません。これは自己の科学と見なすことができます。 それは自己知識の科学であり、外向的な心を通して現実と人生を理解するのではなく、心を内側に向けることによって進めなければなりません。 「私は誰?」という質問をすることが 自己探求の始まりなのです。
私たちは皆、自分が何者あるかを知っているつもりでいるため、これ以上知る必要はないと感じています。 私たちは皆、私たちがこの体、感覚、心、または自我(アハムカーラahaṁkāra)であると思っています。 これは、私たちが自分自身について持っている2つの考え、「私はこれです」と「これは私のものです」と要約することができます。 私たちの人生はこれに基づいて進むのです。しかし、それは正しいですか? 主体である「私」が対象である「これ」になることが可能でしょうか? 私たちは皆、「私はこれです!」と言います。 そうすることで、私たちは対象と主体を特定し混同させるのです。対象が主体になることは絶対にありえないです。それらは光と闇のような正反対の性質なのです。

しかし、これは誤解です。何か、つまり自己を、そうでないもの、体、感覚、心、またはエゴとして捉えることになるのです。これは経典で無知と呼ばれているものです。この無知を取り除く唯一の方法は、自己の真の知識を得るために努力することです。自己の真理はそれがすべてであり、それ以外に何ものでもないので、包括的です。 そして、あなたはそれなのです! あなたはいつもそうであったのです。 これは他の存在に対するすべての分裂、議論、憎しみに終止符を打つ自己探求の方法によって行うことができる発見なのです。

最初のステップは、心を浄化して、それが主にサトビカsāttvikaになり、自己の性質が何であるかを正確に区別する能力を獲得することです。 これには、非暴力、謙虚さ、感覚の制御、そして体の健康の維持などが含まれます。 これらはすべてか「ヨガの実践」であり、不可欠です。 心が非常に純粋で平和になり、内側に向いてきたら、次のように自己探求を開始する必要があります。

感覚は外の世界を客観化します。 彼らはこれらの対象を「知っている者」と見なすことができます。 感覚はまた、彼らの対象である体のことも知っています。 しかし、感覚は心によって知られ、客観化されます。 したがって、心は「知っているもの」であり、感覚は対象なのです。 心は自我によって知られていると言えるでしょう。 そして、心は対象であり、自我は「知っているもの」です。 そして最後のステップは質問をすることです。自我を知っているのは誰、または何ですか? エゴは誰にとっての対象になるのですか?

上記の質問への答えは、あなたを真のあなた、真の自己、直感的で直接知る必要がある真の主体に導いて行くことでしょう。 すべての人の心とエゴのその証人は、不変で常に純粋な意識であり、‘私’という考え、心、感覚、体、そして宇宙全体を目撃します。 それは遍在し、全能であり、全知なのです。 私たちが自分自身について持っているすべての間違った考えや識別がこのような自己探求によって取り除かれたとき、私たちの本質である自己は、その純粋で無限の至福の本来の状態、分離されず、不変で、未生で、すべてに浸透し、常に存在する意識にとどまるのです。

空間がそこに存在するすべてのものに浸透するように、すべての人に同じであり、すべてに等しく浸透するこれが、自己、純粋な意識なのです。 この理解は自然にすべての生命への思いやりと愛につながります。 それは分裂と対立の終わりになることでしょう。 これがすべてのヨガとすべてのヨガの目的、真の調和なのです。

by Anja Kuehnel (翻訳: Heeki Park)