2021/04 ダルマの呼び声

サムニヤマ インドリヤグラマム サルヴァトラ サマブディヤハ 

テ プラプヌヴァンティ マムエヴァ サルヴァブータヒテ ラタハ 

感覚をコントロールできる者は心の平安を得て、私にとって愛すべきすべての生き物たちの幸福のために貢献することを喜びとする(バガヴァッドキータ 12章4節)

今こうして私が書こうとする言葉は、瞑想リトリートの最後のまとめに何日もの沈黙の行の産物としてブクブクと泡のように湧き上がってきたものです。そのとき私の中でぐるぐる巡ったのは二つの考えです。一つ目は、感覚を抑制して心に集中することはなんて困難な務めだろう、平静を保つのはなんて難しくチャレンジングなことだろう、ということです。二つ目は、私にとって瞑想がダルマの人生行路の大切な一部になっていることをますます強く確信するようになったということです。私達のマインドは源泉であり、私達の人生はその帰結なのです。だからこそ、自分のマインドと感覚を知ること、その心の傾向やパターンを知ること、さらに重要なのはマインドを望む方角に動かすすべを学ぶこと、その本質や可能性の両方を理解すること、そのうえで、そうした知識理解を使って私達の本質である「真我」を悟ることが、私達の命・人生における中心となるべき務めです。この悟りに至る道は数多くあり、ヨガはその一つの道なのです。

ヨガは身体だけを調整するのではありません。ヨガは私達の思考や言葉そしてより高い目的を持った行動に連動させるのです。ヨガで私達は他者の幸福のために貢献したい、真の自由へ人生行路を歩むなら奉仕の人生を生きたい、という考えにますます引き寄せられるようになるのです。私達がよく考えてしまうのは、「自分が幸せな気分にになるのはどんなことだろう?」とか「どうすればお金をもっと稼げるだろう?」とか「恋愛関係においてどうしたら幸せになれるか?」とか、マインドは思考をぐるぐると巡らすのです。そうではなくて、むしろヨガの教えでは私達に自問するように促します。例えば「私の人生の選択はどんなふうに周囲に影響していくのだろう?」「自分の選択が社会に与える影響は何だろう?」とか「他者の奉仕につながるような才能が私にあるとしたら何だろう?」など、マインドが浄化されていけば、それに伴って視点も広がってゆくのです。瞑想の行を続けると人生の視点がパノラマ的な見方で見えるようになり、今どこに自分がたっているのか、どこに進みたいと思っているのかが見えてきます。こうした広い視点の認識に至るのは時間をかけてこそ生まれくるものです。

時間をかけて瞑想をすると思考を観察することにつながります。これだけでも気が遠くなるような経験ですが、ただ、その副産物として、心という広い分野を捉える感覚がよりつかめるようになり、刺激に対する反応がより穏やかになり、ときには、クリエイティブなアイディアやプロジェクトに対してふと名案が浮かんだりします。さらに言えば、感覚を使うのをやめ感覚に頼らず、(といういのは実に難しいことだけれど)、でもそうすることで、もっと高い行動目的を思い出しそれに専心することが、より容易になってきます。感覚とはやっかいなもので、私達が道を踏み外してしまうほどの強い力を持っています、でもそのたびに「楽ちんな・快適な」方の選択ではなく「ためになる・有益な」方を選択することを繰り返していけば、安定して地に足のついた自分へと鍛錬することになるのです。私達は集中する鍛錬をすることで平静な心の状態を保つ筋力を鍛えるのです、つまりそれは焦点を合わせる能力であり、バランスのとれたマインドを保つ能力です。毎日の瞑想があなたの人生行路の主要なコンパスになるのです。そうすれば、時間をかけて定期的にプラクティスを続けていくうちに、自分の生き方は自分が信じている教えをきちんと反映しているかどうか、しっかりと精査するようになります。すると必然的に、マインドはたとえばダルマのような、より深遠な課題に向かって進むようになるのです。

私達は人生の様々な局面や様々なステージにおいてそれぞれ異なるダルマに出会います。子供時代なら子供なりのダルマがあり、思春期にはマタ別のダルマに直面し、就職したり、親になったり、それぞれ別のダルマ的な役割がそれぞれ異なる意味を持つのです。ダルマは人生行路を進むにつれて変わるのです。それでも、スピリチュアルな探索を深める道を進みゆくとき、私達のダルマは真実の悟りまたはサッティアダルマのままなのです。よくダルマについてディスカッションするときに繰り返される疑問があります、「正しい行為とはなんだろう?」とか「よい結末とは何だろう?」といったものです。継続がその鍵を握るのです。瞑想の実践、それを連続した不断のものとして長い時間と期間で継続するならば、いずれ答えは明らかになるでしょう。

人生という道の過程に障害物が生まれてくることは避けられないでしょう。たとえば瞑想しようという熱意が欠けることもあるでしょう、自分への疑問が起こったり、師や教えに疑いを持つこともあるでしょう、モチベーションが下がる瞬間もあるでしょうし、逆に執着しすぎたり、嫌悪感に襲われたり、自分の中に不安や混乱も起きるでしょう。そのすべての障害物は無知から生まれます。私達はそれらを見極めて乗り越える道を探すのです。でも一人でやるわけではありません。悟りへの道で私達は大いに助けになるものを得るのです、それは敬愛する師であり、教えであり、サットサンガであり、道を共に進む仲間たちです。最も大切なことは、自分の中にある障害物と向き合うために必要な資源は必ず見つかるということです。それは私達に内在する智慧、自分を絶えず励ます気持ち、熱意や決意、愛ある慈愛の気持ちや忍耐力のことです。時間は相対性理論の世界では早く進みます、私達は全身全霊をかたむけて実践しなければなりません、そうすれば死という最終的な転換期が来るとき、私達がこの人生を振り返り、一切無駄ではなかったと知るのです。

(著:カリナ・ガサロヴァ  翻訳: Rei Miho Ueda)