母のようになって母を世話する

2021/5月

Om sarva mangala-mangalye shive-sarvartha-sadhikesharanye tryambake gauri Narayani namo’stu te
オーム サルヴァ マンガラ マンガリヤェ シヴェ サルヴァタサデヒィケ シャランニェ トラヤンバケ ガウリ ナラヤニナモストゥ テ
三つ目の神聖な母、ナラヤニに私は敬礼する。全てを含んだ吉兆と自由への願望を満たす者。実現は彼女の祝福で生じる。彼女は世界そのもの。生きることの経験を通してのみ魂は完全になり得る。この贈り物を、己の生を讃え、母なる自然に頭を下げよう。ーDurga Saptashati, 11章より(Jivamukti Chant Book 6頁)

一般的な場面や統一感の中で心が楽しんだり、快適さを見つけていたとしても、マインドは対立や違いを探すことに長けています。
全員にとって同じ物事は、当然数え切れない程ありますが、全員に母がいるという事は当たり前の事としてあげられます。
驚くべきほどに真面目で重要な個である大人の一人一人が、その真面目に着込んだ衣類の内側に隠すようにヘソを持っていて、その事が、彼らも昔は赤子であって、ヘソの緒で母親と繋がっていたことを常に思い出させます。
自立を重んじている世界では、私たちが全員が母親に絶対的に依存してきたことを忘れてしまうかもしれません。
大人になってどんな関係性になっていたとしても、彼女の身体が栄養を与え、運んで、私たちを温かくそして安全に維持してきたのです。
あらゆる存在にそれは共通したことなのです、つまり、あらゆる創造物は母を持ち、全ての存在が女性から出現したということです。
全ての存在に一人の母がいます。しかし、私たち全員には共通の普遍的な母がいます。母なる自然です。彼女は一人の母と全く同じように私たちに栄養を与え、そして供給します。 母の日に、私たちは自分の母への恩と感謝を思い出します。

最近では、海の日、国際女性の日、アースデイなど、あらゆるものに「日」があるように思われます。これらの日は、私たちが当たり前だと思っている誰かや何かへの感謝を思い出させるものです。あまりに近すぎる為に、もはや見ることもなく、世話をしたり、感謝することも全く無いかもしれません。
残念ながら、1日だけ思い出したり、世話をするのでは充分ではありません。年に1度母の日に私たちの母へ電話をすることが、母に愛を感じてもらったり気にかけてると感じてもらうことにはなりません。

同じことが私たちの普遍的な母である母なる自然に対しても言えます。母なる自然は向けられるべき尊敬と愛を持って扱われていないのです。 私たちはあらゆる瞬間のドキュメンタリーを見なければなりません。そして、どれだけ母なる自然が虐待を受け搾取されているかについて手を組まなければならないのです。私たちはたとえ小さい解決策だとしても、プラスチック製品の使用を控えるとか、動物製品の消費を減らすなどの事をしなければなりません。しかし、それらは私たちの自然の中に在り、経済や文化は私たちにそのこと忘れさせるように働きかけて「通常」へと引き戻します。
 

私たちの「通常」は酷くバランスを崩し、私たちの母なる自然や母なる自然が創り出した私たちの大きな地球の家族も維持できないやり方で扱っています。母の愛を私たちは普遍的に知ることができます。全ての牛の母が子供を愛し教育して育てます。ネズミの母は、赤ちゃんネズミを守る為に猫と闘うでしょう。全ての雌鶏が卵を産んで、孵化するまでの長い間卵を温めるでしょう。 地球上の人間1人1人全員に母が居て、神聖な関係を持つ事が出来るのだとしても、私たちはまだ、仔牛の為にあるはずの牛乳を消費出来る様に仔牛たちを母牛から引き離したり、雌鶏から卵を取り去ります。 私たちの社会では、他の種のミルクを消費することは「通常」だと考えられています。他の種の雌であり母になる可能性のある存在の卵を食べることも同様です。 母の日は、全ての形の母である期間について深く考える素晴らしい機会となります。私たちは皆子供であり、皆に母がいます。 私たちは、世界の母を尊敬と威厳を持って対応してるでしょうか、それとも、ただ取り上げ、消費し、収穫し、彼女を商品として見てるのでしょうか。 普遍なる母に対して私たちは敬意を返して、関係性の調和を修復することが出来るでしょうか。他の種の母親に、そして地球そのものの母性に神聖さを見る事が出来るでしょうか。私たちは母親からこの人生という贈り物を与えられました。そしてこの贈り物の経験を大切にして祝福することのみが、私たちの魂あるいは垣間見る本当の自己を、確立させることができるのです。母なる大地を安全に保ち、他の全ての存在にも同じようにすることを認めることで、私たちは人生を経験して大切にすることができます。神聖なる母は私たちを守り育てますが、時には母にも母が必要なのは同じです。


本文:Martyna Eder和訳:さみ