2021/10


sarve bhavantu sukhinaḥsarve santu nirāmayāḥsarve bhadrāṇi paśyantu mā kaścid duḥka-bhāg bhavet
May all be happy.May all be free from sickness.May all look to the good of others.May none suffer from sorrow.—Vedic prayer
サルヴェ バヴァントゥ スキナハサルヴェ サントゥ ニラーマヤサルヴェ バッドゥラニ パシャントゥマカシッ ドゥッカバーガヴェ
全てのものが幸せでありますように全てのものが病から自由でありますように全てのものが他者の善に目を向けることができますように誰も苦しみ悲しむことがありませんように
-ヴェーダの祈り

【本文】ヨガを実践する場所、それもパーフェクトな実践をする場所について考えるとき、あなたなら何を思い浮かべますか?(実践するのに)これだけは譲れないというアイテムがある?床は平らでしっかりしている方がいい?壁、窓、自然光、または祭壇が必要?ハタヨガプラディピカには、ヨギーの住まいと実践場所のポテンシャルについて説明されている興味深い節があります(1章12番)。大きさや避けるべき危険性について書かれており、ハタヨガプラディピカの編集者であるスワミスワトマラーマは、「よく治められた純潔な」場所(王国のよう)であるべきだと述べています。

理想的な実践場所の要件の1つとして、それは純潔で落ち着いた場所である必要がありましたか?どんなプロップスを持つかを決める前に、どんな指導者が実践場所にいるべきかについては考えたでしょうか?ハタヨガプラディピカは、ヨガの実践によってもたらされる計り知れない深さに気づけるよう、できるだけ気の散らすことのない雰囲気を作り出し、深く修養したい人のために書かれました。リトリートとは世界の問題から離れて、「スピリチュアルなもの」だけに焦点を当てることだとよく考えられます。 ヨギースワトマラーマは機会があるのであればよく保護された場所を選ぶべきだとも提案しています。

深める「リトリート」に行く前に、まずは社会的な責任について考えなければなりません。世界の問題から「逃げる」前に、私達はそれらと向き合うよう求められます。使われる2つの言葉はdharmike(ダルミケ: 善/道徳/倫理)とsurajye(スラジェ:よく統治された)です。

倫理、道徳、そして良い統治というものは、おそらく人々が書きたい様に書かれています。書かれる前は、確かに話題の種だったのです。道徳的、倫理的、優れた統治だと正確に見なされるものはハタヨガプラディピカでは議論されていませんが、最初の2つに関してはパタンジャリのヨガスートラで探求されています。 ニローダハの考えは、私達が理解しているように道徳の原則に自らを合わせられる、ということです。スートラは私達の考え、言葉、行動がこれらの原則と一致しているかどうか、一致していないかどうか、苦しみなのか(kliṣṭa:クリスタ)、そうでないのか(akliṣṭāḥ:アクリスタ)を常に探るよう言います。

ニローダハという言葉は、コントロールすると訳されることがあります。心のコントロール、注意を保ち、素直に反応したい衝動に駆り立てられることの無いよう気づきへと導きます。これは簡単なことではありません。パタンジャリは、これを実現する方法として哲学的かつ実践的アドバイスをしています。

おそらく、倫理的、道徳的考察が最も明らかであるのはヤマです。ヤマという言葉はしばしば「抑制」と訳されます。自分のコントロールを失わないように、どうすれば自分を抑えることができるのか。私達は自身や他者を傷つけ、後悔する行動をとるような反応のサイクルを断ち切るように努めています。何年もの努力を断ってしまうものは、ほんの一瞬の不注意だったりします。私達がコントロールを失ったとき、怒りや嫉妬と共に言われたいくつかの言葉は、私達が大切にしている人だけでなく、私達自身をも傷つける可能性があります。

私達が瞑想するために座ったり、シャバーサナをしたり、ベッドに横になったりする時、現実に見合わない倫理的な、道徳的な足並みを揃えたいと言う望みの瞬間がめぐって来る場合があります。その状況は私達を目覚めさせたまま、瞑想から引き離したり、リラックスへの過程を遅らせたりします。私達が自分の心とそれがどのように機能するかを探り始めると、私達が見たり経験したりする世界に責任を持つ方法がわかります。パタンジャリによると、ヨガは全ての道をを至上へと導きます。私達は道徳に反する種類の考え、言葉、行動に妨げられることのない、自由な良心によってのみもたらされるタイプの自由を望んでいるのです。

私達は内側を省みることから始めますが、ハタヨガプラディピカが示唆しているように、道徳的にも倫理的にも調和するための配慮は私達のコミュニティにも及ぶべきです。 ヨーガスートラの5つのヤマの論理に従うと、最終的には個人的責任だけでなく社会的責任であることもわかります。例えば私達がアヒムサの実践に専念しているなら、私達は自身の行動が生み出す影響を追わざるを得ません。実行するのか、もしくは”しない”のかのいずれにせよ、私達はどれだけ自身のコミュニティが傷つくことに加担しているのでしょう。私達のほとんどは、地方自治体や国の政府が非倫理的または不道徳であると感じたり、対応が酷いと思っても動くことができません。しかし、私達はもっと十分にコミュニティに参加することができ、行動を起こすことができます。私達が自身の心と体を探るのと同じように、私達の法律やコミュニティがどのように機能するか、その方法を知ることができます。

私達は最初のアーサナのクラスでつま先に手が届くようなことはないし、一夜にして世界が変わってしまうようなことを期待するべきではありません。しかし、何もしないという意味ではありません。パタンジャリは、修習(1章14番)を、中断することなく長期間にわたって行われるものと定義しています。私達はマットや瞑想用のクッションの上に座り努めます。

同様に、私達は時の流れと共に、仲間である地球人のために常に現れるよう呼ばれています。大きなことをする必要はないのです。必要なのは、道徳的、倫理的、そしてよく統治された世界での生活に自らを合わせるために献身することだけです。望む心を待つことはありません。自分たちが望む世界を待つこともありません。私達はそれを実現するためにただ行動を起こすのです。

ジュールス・フェブレ翻訳: Yuri OGAwa