2022 September Sastra:The library of your life

「シャストラ:人生という図書館」 

オム サハ ナーヴァヴァトゥ サハ ナウ ブナクトゥ 

サハ ヴィーリャム カラヴァーヴァハイ 

テジャスヴィ ナーヴァディータム アストゥ マー ヴィドヴィシャヴァハイ 

オム シャンティ シャンティ シャンティ 

私たちを共に容認できるように 私たちを共に守れるように  

私たちの知識と強さが増しますように 私たちが互いに憤慨することがないように   「カタウパニシャッド」より祈りの詩 

かつてこんなことがありました。もう今となっては何年も前のことですが、わたしは祖父の書斎の机の下に隠れて座っていました。その机はすごく巨大なペルシャ絨毯のカヴァーがかけられていて、机の4本の足をすっかり隠してしまうくらいの絨毯は、ドレープが床にも限りなく広がっていました。その書斎で祖父は数えきれないほどの時間を過ごし、昼と夜の時間を全部足しても足りないほどの時間を費やしていましたが、その書斎は本だらけでした。部屋の天井から床まで本で埋め尽くされ、書棚にはきちんと本が整頓されていて、床上にも本がぎっしり詰まれていました。こうした本の量は私にとっては怖くなるほどでした。ただ単純に本が過密なほどの数であったり、本のほとんどが法律関係のテキストだったり(祖父は裁判官だったので)というのもありますが、それだけでなく、怖かったのはそのあとのことを考えたから、つまり、(本を読んだとしても)この本たちが示すゴールや、この本たちに込められた熱気・熱意に自分が到達しないだろうという恐怖が、私を机の下に隠れさせてしまったのです。 

サンスクリット語で「シャストラ」の語根である「シャス」には、教えるとか指導するとか誤りを正すという意味があります。なので「シャストラ」は指図、ルール、マニュアル、書物、権威ある人の作品、経典、と定義されます。「シャストラ」とはサンスクリット語の学習および古典的な経典の研究でもあるのです。 

教書や経典、説明本などは、ともすると私たちにはとても手の届かないものと感じられがちです。そこに書かれている教えは私たちの毎日の暮らしには遠く及ばないものとして映ることもあります。聖人たちについて書かれた物語を読んだり、師匠たちのありがたい智慧を聞いたりすると、こういう人たちは不親切な意地悪い考えなど抱いたこともないだろうな、とか、この人たちは他者を傷つけたことなどないのだろうな、と思えてしまいます。こうした教書を読むと、つい自問してしまうものです。「こんな生き方が自分の人生の舵取りにもできるだろうか?自分はあんなふうになれるだろうか?聖人のように生きられるか?」と。たいていの場合、心の中の内なる声は、「いやいや、自分にそれはないな!」と即答してしまいがちです。けれどシャストラが示唆するのは私たちの可能性なのです。シャストラは私たちに、本来はみんな優しさと思いやりの心を持つ能力をそなえているし、心の奥深くでは他者の人生・命を高めてあげられる生き方を切望しているのだ、と思い出させてくれます。シャストラは、今この時その生き方が可能なのだ!ということを私達に気付かせるのです。 

どんな場面でも、どんな機会でも、どんな関係性においても、私たちにはヨガについて、互いが依存して生きていることについて、互いがあってこそ存在していることについて、学ぶことができると教えてくれます。たとえば私たちが呼吸しているこの空気、それは木々のおかげできれいになっているし、それはつまるところ木々と私たちが互いに「ある・存在する」ことを意味するのです。コロナでロックダウン中であっても、マスクをしていても、ソーシャルディスタンスをとっていても、互いをリスクから守るように助言されているあらゆる手段をとっていても、それでも同じ空気を私たちは呼吸しています。空に虹がかかっているのを見つければ、その光の放射は、太陽の光と雨という特定の原因と条件が同時に起きているから見えているだけだと知っています。ひとつの行為にみられる原因と結果の法則、つまりカルマの法則を、私たちは空に現れたカラフルなアーチからも教えられるのです。物事は相互に依存にしている、それは確かに真実だけれど、ただ私たちにそれを見る姿勢が整った時だけ目に見える真実でもあるのです。シャストラは私たちに真実を見る心の状態を満たしてくれるでしょう。 

ヨガの伝統によるならば、私たちは話に聞いたものを信じるだけでなく、直接的に経験して探求するように求められています。パタンジャリ師によると、私たちが知識を得る方法には3つある、とヨガスートラ1章7節に記してあります。最初の1つが認識(pratyakshaプラティヤクシャ)によるもの、つまり確かな知識というのは知覚できて、視覚的で、目の前に存在している(プラティヤクシャの「アクシャ」とは目のこと、視力、見通すこと、容認すること)というものです。知識を得るための確実な方法の2つ目は推論または証明(anumanaアヌマーナ)を経たもの。そして3つ目は信頼できる根拠・典拠(agamaアーガマー)から導きだされた知識であり、つまりは評価され権威のある典籍や、口述による教唆または書き記された典拠(例えば尊敬されている人物、その分野の専門家で第一人者としての知識ある人物)のこと、つまりシャストラ(経典)によって得る知識です。 

ジヴァムクティヨガの5つの教義はシャロン・ギャノン師とデイヴィッド・ライフ師によって共同設立されたヨガメソッドの土台を作る5つの柱であり、「シャストラ」はその5つの教義のひとつです。教本書、教唆、指導というのは、その学びを経験し教わってきた先人たちによる寛大な行為として、さまざまな時代を通して教え継がれてきたのです。こうした教えは、あるときは椰子の葉に書かれて伝えられたり、あるときはパピルス紙の巻紙に書かれたり、蝋引き書版に書かれた時代もあったり、割れた陶器の破片にあったり、洞窟の壁にも書かれたりして、先人たちが学び、経験し、明らかにしてきたことが、将来の世代にも生き続けて価値あるものになって欲しいという希望を込めて書き残されてきたのです。 

スピリチュアルな教えにはよくあることですが、私たちはそれを1回や2回、または3回聞いてもなかなか理解しにくいものです。時には教えを聞く姿勢を変える必要もあるし、教えを目にするときは違ったアングルから新しい視点で見る必要もあります。その意味でアサナのプラクティスは、教えの「種(たね)」を受け止める土壌を、手入れして耕す行為に似ています。プラクティスのための空間に足を踏み入れるとき、私たちは多くのものを持ち込んでいます。その空間にいても、その瞬間に伝えられる教え・智慧を受け止められないこともあるでしょう。けれど、少なくとも私たちは「OM」のようなシンプルな音をチャンティングできるし、プラクティスに集中して空間に集う人たちとの一体感をつくる手助けになるような一節を、共にチャンティングすることもできるはずです。アサナのプラクティスを終えたころには、先人たちの教えを経験したことで、自分の表面を覆っていた頭でっかちな考えから解放されて、これまで気づかなかった新しい発見をすることもあるでしょう。 

シャストラは私たちを怖気づかせたり、不快にしたりするためにあるのではありません。それどころか、シャストラは私たちの友のようなものです。自分に素直になる経験、人間的・個人的な経験、思考概念によらない直接的な経験へと、心の窓を開くことを目的に作られている手引き書、それがシャストラなのです。自分自身で得た経験を通してそれが実感・確証できさえすれば、シャストラはきちんと知識を得た感覚を裏付けてくれるものだと気づくのです。シャストラからアサナへと、マインド(思考)からボディー(身体的経験)へと、私たちの内なる能力は日々の暮らしによって学びを得るように、心を耕すように、絶えることなく導かれているのです。 

(著:リマ・ラニ・ラバス)