2023/1【Intention: 意図】 Lokah Samastah Sukhino Bhavantu

人生において行動の結果を決定づけるのは、その背後にある意図です。意図は、あなたがしたいこと、または行うことを計画していること、つまり目標を持った目的と定義できます。意図的に何かを行うということは、目的をもって何かを行うこと、意識的に行動することを意味します。ジヴァムクティヨガではクラスの最初に先生が生徒に実践の意図を定めるよう求めます。目的を持って行動し、意識的に呼吸と自身の行動を個々に、そして集合的にヨガのゴール (自己への気づき)へと結び付けるために。

シャロン・ギャノンが言うように、「あなたはヨガをすることはできない。ヨガはあなたそのもの、あなたの自然な状態のこと。あなたがすることは、その自然な状態に抵抗するのは何なのかを明らかにすることだけ」です。私たちの実践の動機は、最初から明確でなければなりません。この実践は本当は何のためにあるのだろう?神聖な自己との繋がりを目指し、ヨガへの希望を育んでいるだろうか?実践が私たちが関わる全てのものの中に神を見いだす可能性を発展させてくれるものだろうか?意図は、思いやり、優しさ、愛することを育むのに役立ちます。

ジヴァムクティヨガの伝統では、次の誓いのマントラを唱えることで意図を定めます。「ロカ サマスタ スキノ バヴァントゥ」生きとし生けるもの全てが平和で自由でありますように。私の思考や発する言葉、行動が何らかの形で他者の幸福と自由のためになりますように。私たちの思考はリハーサル(予行練習)があっての行動です。私たちが他者のことを考え、彼らに向けて自らの行動を捧げる時、それは私たちの小さなエゴな自己から抜け出し、他者を中心とした意識を発達させます。これは他者という認識が消え、全ての存在は一つであるということが見える、ヨガへの一歩です。これが悟りです。このマントラを繰り返すことで、その背後にある意図が私たちの生活の中でより強くなります。

スワミ・ニルマラナンダは、シャロンとデビッドにこの強力なマントラを教えました。動物と鳥のさえずりに囲まれたアシュラムで、彼はアッシジの聖フランチェスコのように暮らしました。彼は、アヒムサ、つまり全ての生き物に対する非暴力を実践するという意図を具現化する者でした。彼は、メランコリーで抑揚のあるマントラを唱えるようよく言ったものでした。「神の名を唱える時はそれを思い焦がれるよう歌わなければならない、悲しみに触れるような声で唱えることは良いことだ」と。マントラを唱える時、私たちの先生そして伝統を通して彼の存在は生き続けています。

サンスクリット語の “antu” は「このようにさせてください」という意味です。大叙事詩マハーバーラタのシビ王は、この誓約を非常に真剣に受け止めました。彼は誠実さ、正義、意図を持つ王として知られていました。シビ王は毎日マントラを唱え、王国に住む全ての生き物を守ることを誓いました。ある日美しい小さなハトが恐怖で震えながら宮殿の窓に飛び込んできました。 「親愛なる王様、どうか私を守って下さい」「私を殺そうとする恐ろしいハヤブサに追われています」とハトは言いました。ハトは王様のひざに隠れました。王はハトの呼吸がとても速いのを感じました。 「恐れることははない、親愛なるものよ」「リラックスして落ち着きたまえ。あなたの羽1本ですら触れさせないから。」彼が王位に就いた時に立てた意図は、弱者が強者に搾取されることを決して許さないことでした。人間だけでなく、木、鳥、そして全ての動物が彼の保護を必要としていました。突然ハヤブサが窓から飛び込んできて、王の前に舞い降りました。 「王様、あなたは私の獲物を隠しました。私はお腹がすいています、食べなければなりません」。王はどうしていいかわかりませんでした。彼は全ての存在を守ることを誓ったからです。彼はジレンマに直面していました。ハトを守るということは、ハヤブサから獲物を奪うということになります。彼は他の動物のように菜食主義者ではありませんでした。シビ王は少し考えてから、廷臣の一人に計りを持ってくるように頼みました。彼はハトに、体重を計るために計りにのっても構わないかと尋ねました。ハトはとても小さく繊細で、体重は数グラムしかありませんでした。「ハトの代わりに私の体の一部を食べ て下さい」と彼はハヤブサに言いました。それで、彼は太ももの一部を切り取り、それを計りの上に置きました。計りのバランスをとるのに十分な重さがなかったため、彼は別の部位を切り取りましたが、それでも計りのバランスが取れませんでした。王は体の一部を切り続けましたが、やはりバランスが取れませんでした。瀕死の状態で血を流しながら王はハヤブサに近づき、「私はあなたにこの身を捧げよう。私の全てを持っていきなさい」と言いました。その瞬間、インドラ神がシビ王の前に現れました。 「あなたは偉大な王だ。あなたは本当に自分が意図することを言い、あなたはあなたが言っていることそのものだ」彼は王の体を元に戻し、王は王国全ての存在を守り続けました。

あなたが愛する人、あるいは人生に苦しんでいる人に、あなた自身の実践を捧げて下さい。心の目ではっきりと観ながら、クラスの間中それらのことを思います。クラスの間中それらに集中するということは、自分自身のことや自身の問題のことをしばらく考えることをやめる、ということです。あなたの師の解放と幸福ために努めて下さい。自身のサーダナ(意図のあるスピリチュアルな実践)で彼らがうまくいくことを願うことは、あなたの考えと実践を高めるもう1つの方法です。崇高な意図がなければ、反芻し自分自身のことだけを考える傾向が強くなり、私たちをAvidya(アヴィディヤ)= 無知、誤解へと導きます。私たちはヨガのゴールに興味があるのか、それとも身体を鍛えることに興味があるのでしょうか?意図のないアサナの実践は、あなたをより強く、より健康にはするでしょうが、あなたをヨガそのものへと導くことはないでしょう。

私たちが自身のエネルギーと焦点に注意を向けるものは何でも、そこへと向けられます。向上したいという私たちの意図について、マスター・パタンジャリは準備ができている人たちに次のアドバイスを与えます – Yoga Sutra 1章23番 ” īśvara pranidhānād vā. 自身のアイデンティティーを神に差し出すことによって、あなたは神のアイデンティティーを得ます。全てのエネルギーと感情がその一つの目標に向けられるように、心を神に向け、自分の行動を捧げること。パタンジャリは、神を知るための直接的な道としてバクティ ヨガを提案しています。実践中に出てくるネガティブなな考えや感情を俯瞰することができ、エネルギーの向きが変わります。私たちは目指している意図によって解放され、浄化されるために、自身を縛っているものを手放します。私たちの思いと心は、日常生活の中で他者に対する感情のことで悩まされることがよくあります。 「私をあなたの意志のための道具にしてください。私のものではなく、あなたのものにしてください。私を怒り、嫉妬、恐れから解放してください。私の心を喜びと思いやりで満たしてください」
ムーラダーラから来る恐れ、スワディシュターナからの嫉妬、マニピュラからの怒りを感じた後、心臓アナハタ チャクラ-愛を持って全ての行動を神に捧げる場所に向かって移動します。自身の魂であるアートマンを思い出す時、神の存在が感じられます。私たちは神の道具となり、その経験を通して真我アートマ・ジュニャーナの知識を発展させます。

バガヴァッド・ギーターの中で、クリシュナはアルジュナに、行動から得た結果は何であれ放棄し、あきらめるべきだと説明します。これは、私たちが何かをすることを計画したり、意識的に行動することを目指すべきではないという意味ではありません。これから起こりうることに動機づけられるのではなく、意図を自ら賢明に選び、その意図を信じるのです。ヨギーは、全ての存在の幸福のために努力し、他者の生活を向上させるように行動するものなのだから。

著者: アンドレア・クウィアトコゥスキ
訳: 小川友里 (Yuri OGAwa)