Om mani padme hum オム マニ パドメ フム
「蓮の中心にある宝石へ敬意を表して」
――カランダヴュハスートラによる、最も美しく唱和されるマントラ
マノラマ師による翻訳
私たちの根元的な本質の部分には生まれ持って慈悲の心がある、というのが古代のスピリチュアルな伝統や現代の科学でも見解が一致しているところです。昔であろうと現代であろうと、その客観性にくみすれば、私たちが苦しみに直面した時や、その苦しみを緩和したいと何か行動を起こすモチベーションを感じる時、これから起こるかもしれない未来の苦しみを止めようと先手を打つ時など、それが自分自身のためであっても他の誰かのためであっても、私たちの心の真ん中に湧き上がる慈悲の心は「宝石」として定義してよいでしょう。
また、スピリチュアルな伝統でも現代の科学でも見解が一致していることはほかにもあります。それは、沈思黙考する実践をし、慈悲の心や感情や意欲を意図的に導き出そうとする訓練を行うことで、暮らしのなかで日常的に慈悲の心を表現する余裕を生むことになり、生来の慈悲の心が能力として醸成できるうえに、広く展開できるようになるという見解です。こうして私たちの心に生まれた貴重な種(たね)は成長し大きく育っていきます。どんな小さな行いも、慈悲の心は私達に変化をもたらし、ひいてはそれが世界にも変化をもたらすことになるのです。
行動に秘められた慈悲の心はそれを受け取る人に影響を与えるだけでなく、行動を起こすその人自身にも影響を与えます。私たちが他者に対して慈悲の心から行動をするとき、その恩恵は私たち自身の収穫にもなるというのはよく知られているし記録にも残されています。慈悲の心は私たちの生理学*を活性化し、それによってメンタル面も感情的な健康状態も改善され、孤独感によるストレスが減って、幸福感が増すのです。私たちの師シャロン・ギャノン先生の言葉を用いるなら「自分自身の生き方を高めようとするなら、一番良い方法は他者の生き方を高めるために、できることをすべてやること」です。同じように禅の師であるティク・ナット・ハン師も述べています、「幸福感は慈悲の心がもたらすはたらきである」。
慈悲の心の教えは聖書の黄金律のまさに核にあります。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(訳注:新約聖書マタイ7章12節)とはすべての主要なスピリチュアルな伝統の倫理的な土台と言えます。私たちの本質部分を生かして、人生の意味や目的といった深い意味とつながることで、慈しみの性質は自己中心の考えにとらわれてしまう牢獄から私たちを開放してくれます。真心からの行動を意識することで、私達には帰るべき仲間がいるという感覚(帰属意識)や互いが繋がっているという感覚がうまれ、恐れは減り、立ち直る力が増してきます。これは決して楽観的な甘い考えではありません。慈悲の心には勇気が求められるし、勇気の醸成もするのです。というのも、人は苦しみの中にあっても、結果的にはその苦痛を何とかしなければいけないという積極的な関与が生まれることで、それが自分を励ます力を生む状況にもなるからです。このように苦痛に対して勇気と愛情を持って積極的にかかわるとき、慈悲の心は変容する可能性を持つのです。もっと言うなら、苦痛などの難しい課題を、有意義で繋がりを生むものに変容させるのに、慈悲の心ほど効力をもたらすものは他にありません。
これに比類して仏教で伝統的に伝えられているのが「睡蓮と泥」です。睡蓮はぬるぬるした泥のなかに根付き、それでも上を向いて成長し、汚れない輝きを放つ花を咲かせます。宝石(マニ:慈悲の心)が睡蓮(パドメ:智慧)の中にある、つまり「オム・マニ・パドメ・フム」のマントラが象徴的に表しているのは、悟りの道程においては慈悲の心と智慧がひとつに結合する(フム:不可分、切り離せない)ということなのです。睡蓮が泥なしには栄養を得ることができないのと同じように、慈悲の心と智慧は困難・苦難が生む「養分」の力がなければ大きく成長できないものなのです。
最近の数十年間で、たとえば進化心理学であったり社会科学や神経科学などの多くの学問分野で、慈悲の心がどのように作用しているのか、そのメカニズムや利点について研究するようになりました。そうした研究は厳密に行われ、いにしえの時代よりヨギたちが知っていること、つまり「慈悲は心の中にある宝石のように崇高な状態でそこにあり、個人的にも集団としても癒し、救い、変容、進化をはぐくむものだ」ということを改めて認めています。そうした研究では、慈悲のプロセス**には次の6つのステップがあると解説されています。1)苦痛や難局を知覚する(マインドフルネス:意識の集中、2)その苦痛や難局に感情的なつながりを持つ(エンパシー:共感、3)苦痛から解放されたいと本能的に願う(インテンション:意図)、4)そのために何か行動したいという意欲を持つ(モチベーション:意欲)、5)実際に慈悲の行動を起こす(アクション:行動)、6)崇高な感覚を経験する(慈悲の心がもたらす温かい高揚感)。
私たちが他者に捧げる慈悲の心が見せかけでない本物で、しかも持続可能なものであるために、まず私たちの内にある財産を大事に育むことが必要です。慈悲の心を最初に受け取るのは自分自身であるべきなのです。まず自分の心の声を聞くことから始めましょう。苦しみをやり過ごしたり無視したりするのではなく、苦しみの原因や状況を注意深く、勇気と智慧をもってしっかりと精査しながら、自分自身の苦しみに寄り添い、大事に抱いてみるのです。そうすることによってはじめて、自分の幸福にも、他者の幸福に対しても、豊かな実りのあるサポートができるのです。
思いやる意欲、勇気ある心、深い智慧、それらを他者に向けられるかどうかは、自分自身への慈しみがあるかどうかで決まります。私たちが苦しみからの自由や幸福を強く望むのと同じように、すべての他の人たち・他の生き物も、自分と同じように自由と幸福を熱望しているのです。「自分と同じように」というのは、いわばマントラです、それを心で唱えると、私たち生き物すべては、最も本質的な部分ではじめから関わり合い、繋がっているのだと気づかされ、計り知れない慈悲の心が引き起こされ湧いてきます。どんな出会いも、私たちはただはじめから自分自身と出会っているにすぎないのです。この深遠で具体的な理解こそが、本当の意味で慈悲の心をもって生きることなのです。
人生の道程を歩むのに、私達には互いのサポートが必要です。いま世界が経験しているすべての危機は、本質的に言えば、慈悲の心の危機なのです。マザーテレサはかつて言いました、世界で一番の大きな問題は、自分たちが関心を持っている範囲として線引きする円周が小さすぎることだ、と。いまこそ全身全霊でお互いを刺激し合って、心の中の宝石を大きく養いましょう。一緒に切磋琢磨して慈悲の心が大きく、広く、届くようにしましょう。宇宙にある一つの惑星として、地球人として、このコミュニティーに生きる私たちの命の存在そのものは、そこに依り頼むほかないのですから。
本文中の注釈
*オキシトシンとドーパミンが放出されると、副交感神経の反応が動き始め、脳内の前頭葉皮質が強化され、偏桃体は刺激に対しての反応を鈍くする。
**この推論はゴンザロ・ブリト・ポン氏(Gonzalo Brito Pons)が、慈悲について大規模に焦点を当てたゲーシュ・サブテン・ジンパ師(Geshe Thubten Jinpa)とポール・ギルバート氏(Paul Gilbert)による研究をもとに導き出したもの。研究はそれぞれ、ジンパ師が瞑想および哲学的な視点、ギルバート氏が心理学および進化論的な観点による。
(エッセイ著:キャンディーダ・ヴィヴァルダ)