ॐ असतो मा सद्गमय । तमसो मा ज्योतिर्गमय । मृत्योर्मा अमृतं गमय । ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥
Om Asato Maa Sad-Gamaya |
Tamaso Maa Jyotir-Gamaya |
Mrtyor-Maa Amrtam Gamaya |
Om Shaantih Shaantih Shaantih ||
~ 英訳-マノラマ
私たちを真実でないものから真実へ導きたまえ
私たちを暗闇から光へ導きたまえ
私たちを死から不死へと導きたまえ
平和、平和、平和
「リア王、よく見るんだ!」シェイクスピア作、リア王1幕シーン1、エール オブ ケントがリア王の娘のコーディアルを擁護し、真実を語った為に、リア王の前から姿を消すように言われた後、エール オブ ケントはリア王に良く見よと反論します。良く見る事、ハッキリと見る事、近づいて見て、近くを見るようにすると、大きな視界が見える。この忠実な助言者が王に与える助言は、ヨガの教えの中にも見られるものです。 近く見る事のサンスクリット語はupekșa (ウペクシャ)です。upaは近くへ行く、向かっていくの意+ ikșaは見る事の意で、つまり見る為に近くへ行くという事です。upekșaとはよりよく見る事への招きであり、それによって私たちが状況に対して視覚的で明晰さを伴った関わり方ができることをほのめかし導き説いています。
リア王は頑固でプライドと権力という障害の為に盲目になり、より良く明晰に見るには限界があったのです。頑固さ、プライド、権力、怒り、嫉妬、恐れ、偏見、これらは私たちが盲目になる場所を強める障害たちです。
盲目になる場所は視覚野に存在し、理由が何にせよ見えなくなるのです。盲目な場所は充分に見る事を妨げ、私たちが直接経験することに対して、視野的で穏やかに関わる能力を損なうのです。盲目な場所はavidyā(ヴィディヤ)の範囲です(a=否定+ vid=知る、感じる、経験する、認識する)。Avidyāとは幻想、無知、見逃しを意味します。それは執拗で容赦のない、深く根付いた誤った認識に関与し、すべてのクレーシャ(波動のパターン、干渉、苦悩)の最初の、そして根本的な原因となるのです。
10年以上に渡り知っているイスラエル人の生徒が、ニューヨークに来てからアラブ諸国の人に会ったのは私が初めてだったと最近になって言ってきました。彼は、ヨガの練習をある程度継続した後に、「自分のような人々」に対して抱いていた”抽象的な危険”という固定観念や堅く信じていた考えが解消されていき、現実と再び調和することができるようになり、そして、恐れではなく自然な気持ちで繋がることの出来る一人の人間として、私を見ることができるようになったと話してくれました。
アサナの練習には多くの要素があります。その一つは、dṛști (ドリシュティ)あるいは一点を見つめることです。様々な体の部位に対応した9つのdṛștiがあります。1箇所に焦点を当てて見つめる事でdṛștiはワンネスの感覚、そしてマインドフルネスを向上させ、完全に融合した存在である事を経験する時間を有効にします。視線を“ekāgratā”(エカーグラター、つまり、一点集中)の状態に導くプロセスは、マットの上で身体全体への気づきと感覚を養うことを可能にします。身体の気付きと共に、私達の眼で見る事の出来る限界を超えた視界を見るようになるのです。私たちは感じる事で見るようになるのです。「肌の細孔の全てが眼となる」とB.K.Sアイアンガーは書籍 “Light on Life” (和訳タイトル:心のヨガ)で書いています。アサナを私たち存在の一つ一つの細胞で感じる時、私たちは現在を感じ、私たちのヴィジョンを磨き、avidyāを貫通し、そして、身体の内の安らぎ、マインドの中の安らぎ、私たちの関係性の中の安らぎを見つけるのです。
アサナの練習は、感覚の発達を導き、そうすることで私たちは眼で見る事の出来る所まで私たちのマインドを引き伸ばし、それから更に先へ進んで心を硬くしているものを柔げ、そうすることで私たちのヴィジョンは心が見る事の出来る所まで引き伸ばされるのです。サン=テグジュペリが『星の王子さま』に書いたように、「心でのみ、正しく見ることができます。大切な事は目で見る事はできません。」マインドは身体がアサナに入り込むようガイドするかもしれません。そして心もそれを感じなければならないのです。感じる事は私たち人間の象徴であり、感覚ある存在であり、そして理解の夜明けとなるのです。私たちが練習を積み、そうすることであらゆる存在を私たち自身の中に感じる事ができるようになりますように。
和訳:荒木沙実(Sami)