2026.6
vitarka-badhane pratipaksa-bhavanam
(YS 2-33)
ヴィタルカ バダネ プラティパクシャ バヴァナム
心が掻き乱れた時は反対のことを熟考する
(ヨーガスートラ2章33番)
“立ち上がるには、まず身をかがめないといけない”とシャロンとデイビッドはよく言っていました。人生の節目となる様々な局面で他者と共に直接学んだ長い時間は、私にとって心の奥底から胸に刻まれる大切な思い出となっています。先生方が常に私たちを促し、表面下でメインストリームな社会構造の外からより深く見つめるよう促してくれること、人間関係、相互依存、相互の繋がり、そしてこの地球に属しているという先祖代々受け継がれてきた知恵を通して学ぶよう促してくれることに感謝しています。
想像力や気づき、意識、慈悲、そして知恵に恵まれた種族として私たちは土台から築き上げる力を持っています。土壌を汚染しているかもしれない雑草や腐った堆肥を掘り出し、慈悲、許し、そして愛の種を植える力です。それらは私たちに根源に立ち返って、寛大になり伸び伸びと深く掘り下げることを求めています。この意識の方向性はウルドゥヴァ・ダヌラーサナやシルシャーサナ、タダーサナの実践からだけでなく、腐敗と繁殖を繰り返す根と菌糸体を持つ地球から学ぶことも人生の様々な場面に役立てることができるでしょう。
私たちは息を吸ったり吐いたりするとき、山や木のように受け取ったり(リシーブ)返したり(ギヴ)しながら相互関係の精神で立つことができるでしょうか? 日常から非日常を経験することや、崩れ落ちそこからまた一つになる経験は、もし気づくことができるならあらゆる瞬間に存在します。苦悩から金を採掘することを学ぶにつれ、私たちは自身の痛みを共感へと進行させ、他者の中に自分自身を、そして他者を自分自身として見始めることができます。 シャロン・ギャノンの言葉を用いれば “他者性がなくなったとき、ヨーガはある”のです。
ただそこに立つのではなく、印を形どるための足、手、肩、頭(地面に触れているものはすべて)を下へと伸ばしましょう。そうすることで体と心の両方の構造に安定性と強さがもたらされます。これはアサナの動きや、人が育み洗練させていくあらゆる関係性に心の全てを向けさせます。表面だけをすくい取ったり、壮大なポーズを取ることで数秒間浮いたりする代わりに、練習を通して頑丈になりチャレンジングな行動の中で中庸を保つことができます。私たちは困難な時期を通して自身と他者の関係をまっすぐに保つことができます。たとえ落下してしまったとしても学びがあります。ヨガは私たちにすでに私たちの周りにある命とつながり、今ここにいることを求めています。
闘争や苦しみから逃げることをやめて、代わりに火を体験すること。熱という高揚させる要素を用いて圧倒される心と萎縮する気持ちから自身を引き上げること。心配することから信頼することへ、憎しむことから許すことへ、被害者意識から自らが主役となる在り方へ。足りないと感じるメンタリティからすでに豊かであるという感謝のメンタリティへ。それは私たち自身から始まります。
これは必要以上に奪わず、かつできるところでは与え合う、相互に有益な関係を育むための実践です。私たちの周りの世界は絶えず見合うように生まれ、そしてそぐわなくなれば消えていきます。川は海に、海は雲に、雲はティーカップに(抽象から具体を象徴している?)、拡大し、収縮し、脈動し、振動し、固まります。それぞれが他のものから構成されています。それは相互に存在し、他のすべてと共存しなければなりません。つながりの発生はエネルギーを強力で創造的にします。イダとピンガラ(月のチャネルと太陽のチャネル)ナーディが交差するとき、私たちの手と手が心臓の前で合流するとき、または物質が精神と出会うときです。
この思考と心、身体と呼吸が統一することを体験すれば相反するものの差異や調和から、様々な側面は実は分離していないという洞察が得られます。相反するものは互いに依存して存在しています。チャンティング、瞑想、ヨガのアーサナの間、実践者は自分よりも大きな何かを体験します。心と精神の広大さ、神性の思い出、そもそも分離してはいなかった無限とのつながりです。究極的には源と予見者が一つになります。ヨガは人生が私たちを反対の方向に引きずり決断をしたり困難を克服したりするときに、私たちが人間性や神性、回復力や創造性にズームインしたりズームアウトしたりできるように、身体的および精神的な核心につながり、それを強化する方法を教えてくれます。
極性とは “2つの正反対の傾向や意見などを持つ、またはそれを表す状態”(コリンズ辞書より)であり自然界とすべての生命に存在します。 人間にはその生体内に恍惚と苦悶、収縮と拡張を組み込まれています。喜びと不快感の叫び声は、乳児と母親の間で生ずる最初のコミュニケーション手段です。 この原始的なコミュニケーションによって乳児の生存は確認されます。人間は美しさと残忍さの両極を持ち、思考や行動は愛か恐怖のどちらかによって動かされます。 私は自然の豊かさと多様性の中で、同じ茂みから採れたブラックベリーが2つとして同じものはないことを発見しました。 それぞれが絶妙で興味深く、そしてリアルなのは、様々な質感と微妙な味の違いがあるからです。 自然の素晴らしい仕組みは多様で無限です。 人間も同じです。 創造性と天才は同一のものからは生まれません。異なり、ユニークで、本物であることが、私たちのスーパーパワーなのです。
違いは個人や社会を混乱させるものかもしれませんが、そのコントラストはまた拡大、想像力、創造性、行動、変化を刺激するものでもあります。パタンジャリのアドバイスは実用的かつ普遍的です。”心が乱れたとき” つまり人として混乱、不安、破壊的なパターンに直面したときに “反対のことを熟考する” 。異なる視点を持ち、生きる最中に存在する無限で豊かな普遍的な愛を導く力を。制限する代わりに可能性、機会、代替案の検討を。ティク・ナット・ハン師は私たちに “一粒の塵も神の王国、浄土となり得る” ことを思い出させてくれます。
著者: Huma Jalil ユマ ジャリル
訳: Yuri OGAwa ユリ オガワ