PRATYĀHĀRA – 「断絶」という病を癒す

シャロン・ギャノン | 2025年12月

Om sri-krsnah saranam mama
私は、すべての存在の本質である神クリシュナに帰依します。
― シャロン・ギャノンによる解説
プラティヤーハーラ(制感)は、パタンジャリが説く八支則の第五枝であり、一般的には「引き下がること」。つまり、心と五感を外界から退けること、と説明されてきました。しかし、多くの場合これは感覚を避けること、無視すること、否定することという意味にすり替えられてしまったように思います。その解釈は、世界を霊性の敵のように捉える姿勢へとつながり、私たちの意識を狭め、自然から切り離し、世界を「善と悪」に分断する分離意識を強化し、精神的進化を妨げてきました。しかし、少なくともバクティヨガ(献身のヨガ)の視点から見れば、プラティヤーハーラは排除ではなく包含です。『バクティは感覚を愛する』とシャムダスは言いました。では、プラティヤーハーラとは何なのか?どう実践し、ヨーガ―すなわち「神の実現」や私たちの自然との断絶を癒すこととどう関わるのでしょうか?


神と創造は分離していません。私たちの側が神と世界から切り離されてしまったのです。もし私たちが、「平凡」「聖なるもの」という自己の内側のレッテルそのものを変える努力ができたなら、私たちはヨーガへと近づくことができます。すべての行為を神へ捧げ、エゴを超えた高次の自己へと明け渡し、神への愛(バクティ)を日常へ迎え入れるとき、人生は輝き、魔法のようなものとなり、「平凡」という感覚は消え去ります。
パタンジャリはこれを様々な方法で語っています。例えば、第一章にて、Īśvara(神)へ自らのプラーナ=生命を捧げることがヨーガへの最も直接的な道だと言います(PYS I.23)。第二章では、プラティヤーハーラがヨーガへ近づくための実践として説かれます(PYS II.54–55)。心が神への愛で満たされるとき、五感は内にも外にも神を見るようになるのです。
第四章でパタンジャリは、私たちが目にするすべては心の投影にすぎない と語ります(PYS IV.15)。つまり、外側に「外側」が存在するわけではなく、すべての源は自分の内にあるということです。バクティの偉大な師シャムダスは、ニローダ(nirodhaḥ=止滅・静寂)を真の放棄の形だと言いました。プラティヤーハーラは、ニローダと同質の実践です。バクティが目覚めると、人は心の変動(citta vṛtti)と同一化することをやめ、世界の中に、そして自分の心の中に、神の存在を見始めます。これが、パタンジャリの言うヨーガ(PYS I.2)です。ヨーガとは、永遠とのつながりを想い出すこと。思考を超えたときに、それは起こります。プラティヤーハーラとは、どこにでも神を見ること、すなわち「遍在の感覚(Sarvātmabhāva)」なのです。私が師 パタビ・ジョイスにプラティヤーハーラとは何かと尋ねたとき、彼は壁を指して言いました:                            
「これは何に見える?」                     
「壁……?」                              
「ならば、壁だけでなく神が見えるようになるまでプラティヤーハーラを実践しなさい。」
ではどう実践するのか?神の名を唱えること―śrī kṛṣṇaḥ śaraṇaṁ mama(シュリ・クリシュナ・シャラナ・ママ) のようなマントラはプラティヤーハーラを育む強力な方法です。マントラは雑念を切り裂き、現実の光を通す道を開きます。プラティヤーハーラは知覚を浄化し、神の存在をどこにでも感じられるようにします。今日、世界が抱える真の危機は社会的、政治的、経済的危機ではありません。私たちが自らの本質――永遠の至福の神性を直接体験できなくなっている意識の危機です。その本質を、他の人々、動物、木々、川、つまりすべての存在の中に見いだせないという危機です。プラティヤーハーラの実践は、私たちの中の無知(avidyā)を取り除く手段です。その無知こそが、自らを優位な種だと錯覚させ、地球とすべての生命を征服し支配すべき対象とみなし、霊性のためには世界を避けるべきだと考えさせるのです。
プラティヤーハーラは、知覚を洗練することによって現実を直接体験する目覚めへと私たちを導きます。それは、目覚めている時も、夢を見ている時も、眠っている時でさえ、毎日行うことのできる実践です。与えること、そして思い出すことによって変容をもたらす強力なスピリチュアル・プラクティスです。マントラを通して神聖さの記憶に目覚めることも、プラティヤーハーラの実践です。バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナは、行うすべてを、まず最初に神へと捧げる‘セヴァ’ を勧めています。
ヨギは、神と離れてどこにも行きません。神なしに何も味わいません。ヨギは、どこへ行くにも神を招きます。夕食に行くときも、ショーに行くときも。神と歩き、神と語り、神のために料理し、神と共に食べ、飲み、神のために歌い、踊り、神と一緒に人生を楽しみます。五感を通して体験するすべての香り、味、景色、触感、音は、神と分かち合われていると知るからです。そのとき、五感は高められ、神聖なものへと変わります。
神への奉仕(セヴァ)として、五感そのものを主のために捧げる生き方をすると、神の存在を 心の中に、ハートの中に、そして人生の中にはっきりと感じられるようになります。そのとき、日常を覆っていた 「平凡」というマーヤー(幻)のヴェール が取り払われ、すべては神のリーラ(神聖な遊戯・戯れ)だったという真実が明らかになります。これこそが プラティヤーハーラ の意味するところです。五感を、世俗的なものから神へと向け直し、注意を神聖なるものへ向け、その存在で満たされるとき、それが真の離欲(renunciation)です。五感が「ただの現象」から離れ、神への捧げものとして働き始めるとき、かつては平凡だと思っていたものが、献身者(バクタ)には神聖なものとして輝き始めるのです。