HELD BY WHAT WE HOLD: THE WISDOM OF TARA
私たちが掴むものに掴まれている: タラの智慧

by Janka O. and Marie C  / May 2026.

オーム ターレ トゥターレ トゥレ ソーハー
チベタン マントラ

あぁ、女神タラ、自由から私たちを掴んでいるものから私たちを解き放つその教えによって私たちを苦難から解放し賜え
英訳:シャロン・ギャノン

このマントラは、タラに困難を退けてもらう事を願うものではありません。それよりも、私たちを縛っているものをどの様に解くのか教えて欲しいと願うものです。この違いは全てを左右します。
チベット仏教の伝統では、絶対的な慈愛の化身とされます。圧倒的な痛みを感じる時にタラは手を差し延べます。緑色した女神として、タラは希望の象徴なのです。彼女の緑の輝きは、全てが影に覆われている様に見える時、私たちを道へ戻るよう導いてくれるのです。彼女は行動における慈愛、守備、恐れないこと、そして目覚めた智慧の女性原理の象徴なのです。
それでもタラは、ただ安心を与える母性的な存在に留まりません。目覚めには勇気が要求されるという彼女からの深い伝えは明確です。つまり、恐れに囚われるのではなく、恐れを突き抜けて行く意志なのです。


仏教の理解では、困難(ドゥッカ)は、外側の状況によって起きることはなく、無知(アヴィディヤー)、誤った自己理解(アスミター)、執着(ラーガ)、嫌悪(ドゥヴェーシャ)、そして、喪失と死への根付いた恐れ(アビニヴェーシャ)が主な要因となって起きるとされています。
これらの内的な要因は、思考や知覚のレベルで操作されています。それらは、現実現象の経験からメンタルのパターンを形作るのです。 ブッダはこう教えます。「私たちの全ては、私たちが考えた事の結果です」ラルフ・ワルド・エマーソンは「全ての行動の先祖は思考である」という内的視点を反響させた。私たちの思考は私たちの選択を形作り、私たちの選択は私たちの人生を形作る。私たちが知覚することはマインドを通してフィルタリングされる。
ヨガ哲学は、私たちがしばしば絶対的な実在(プルシャ)と、変化し続ける経験の領域(プラクリティ)を混同してしまうことを教えてくれる。 練習は、この区別への曖昧さを少しづつ排除して行きます。 何が浮かび上がって来たとしても、それにしがみついてはいけない。転換は、それを手放すという所にあるのです。マントラは人生を修正することを求める為にあるのではありません。この要求に暗黙することが大前提であり、不自由さの根底はしがみつく事にあるのです。
私たちがしがみついてる物は何か? 私たち自身の物語。喪失への恐れ。自我。憤り。 期待。役割への執着、関係性、そして結果。タラのマントラからの僅かな転換とは、私たちは何にも捕らわれていないということ、つまり、私たちが捕まえて離さない者たちなのです。タラは、私たちが捕まえているという事を認識してそれを手放すという勇気を象徴しているのです。バガバッドギーターの2章47でクリシュナがアルジュナに、行動の実りにしがみつかない様にと助言している様に、クリシュナは自由への道として、執着しない事への修行を指し示しています。
従って、このマントラは責任とヴァイラーギャ(執着を手放すこと)について伝えています。私たちを今この瞬間に生息する事から妨げている習慣を手放す勇気と明晰さへと導いているのです。無くなっていくものは幻想で、残るものは自由なのです。 
導きは個人を超越します。内的転換と集団的転換は切り離せないのです。もう成長の助けにならないものを手放した時(個人的なものでも、集団的なものでも)、私たちは一新への状態を創るのです。社会は、個々の意識が養われた時に進化します。内的明晰さは外的責任となるのです。
” オーム タレ トゥタレ ソーハ”は、救済を求めるものでも、逃避を求めるものでもありません。目覚めを願い、そして、緊急に希望と明瞭さを必要としている世界で、恐れの無い慈愛を体現することを求めるものなのです。