今月のテーマ

H2OM 水(エイチ・トゥー・オーム)

 

パットラム プシュパム パラム トーヤム
ヨーメ バクティーヤ プラヤチャティ
タダハム バクティー ユパリタム
アシュナミ プラヤタートマナハ
私への供え物であるならば何でも、そこに純粋な愛の心がこもってさえいれば、たとえ小さな葉っぱでも、一輪の花でも、一切れの果物でも、一口の水であっても、控えめな心の持ち主からの供え物を私は受け取るであろう。  バガヴァッド・ギータ 9・26

 

蛇口をひねって小さなグラスに水を汲む、というのが一か月間、私の毎日の日課でした。水はまだ茶色で、それは薄い紅茶のような茶色というよりむしろ、かき混ぜたら地面の水たまりみたくドロドロになるような濃い茶色でした。このごろはケープタウンの水源がほとんど空っぽで、カリフォルニアはいつものように干ばつ、そして我が家にも飲み水不足の危機が迫っています。ウッドストックの我が家では、自分たちの井戸があるのですが、その水が未処理でクリアであることを何年もの間あたりまえのことだと思ってきました。ヒートシステムや水のタンクが泥だらけになっている光景を目にして慌てた私は、ふと思ったのです、クリシュナは、こんな泥水になった私の供え物を受け取ってくれるだろうか。

 

バガヴァッド・ギータからのこの一節は、供え物の内容物自体はたいして重要ではなく、供えられるときの誠実な気持ちがより重要であると伝えています。けれど私は考えずにいられないのです、その「一口の」水とは、ほんとに飲める一口、という意味を含んでいるのか、と。そこで私は急いで雑貨屋さんに走り、大きなプラボトルに入った「鉱泉水」を買うことにしました。一本が3ドルでしたが、その3ドルとは何のコストだろうと考えました。この素敵なプラスティックボトルにかかったコストなのか、たしかにボトルには備え付けの取っ手も注ぎ口もついてるし。いや、それとも内容物である水そのものが高価なのだろうか、などと考えてしまいました。私たちはヨガを教えるためにこの何年もの間、多くの都市を訪ねてきましたが、そうした都市の多くは水不足という喫緊(きっきん)の課題に脅かされています、たとえばそれはバンガロール、北京、カイロ、モスクワ、イスタンブール、メキシコシティ、ロンドン、東京、そしてマイアミなどです。こうした場所のそれぞれで、私たちに提供されたのがプラボトルに入った「飲める」水でした。

 

それぞれの都市にそれぞれの有害因子(ストレスの元)はあるものだし、それを普遍的に解決する策を考えつくのは本当にできることではないものです。けれど確かに、人類が水資源をどう利用するのかについてそのパターン(あり方・傾向)を根本的に変えることは、いま現在求められていることなのです。水資源に対するこうした傾向は、私たちの深いところに根付いた考えなので、たとえばトイレの水を流すとか、水道をひねると水が出るとか、クリーンな水があるのは当たり前だとする社会風潮によって推し進められてきたものと言えるのです。地球はその70%が水であるというのに、そのうちたった2.5%だけが飲める水であり、そのうち1%だけが私たちの手に入る水なのです。十億人以上の人たちが十分にクリーンで安全な水を手に入れることができずに暮らしているのです。

 

動物を農業生産物の対象としている産業は、その水の利用のパターン(あり方)がおそらく最も水資源を深刻に無駄遣いしているといえます。たった一ポンドの牛肉を生産するために1800ガロンもの水が必要だし(脚注1)、それはポテトに換算すれば60ガロンで済むことであり、小麦にすれば一ポンド生産するのに108ガロンだけ必要とする計算なのです。しかし水の使用だけが問題ではありません、ここで注目すべきは、どうすれば安全な飲料水を保護できるのかということです。長大な人類の歴史の中で、私たちは水や空気という大事な要素について、まるでいつでも補充できるものとか、無料のものだとか、、決して汚染されないものなのだ、と考えているのと同じように、枯渇することのない無限のものと考えてきたのです。私たちの天然資源がその量を減らし、質が劣化してゆくものだと知ると、腐敗したエリート階級の人たちは、それを商機として商売をはじめ、生命維持に不可欠な資源を個人所有のものにしたり自分たちのものとして獲得しようとするけれど、本来こうした資源は、生命を維持するのに必要な要素なのであり、すべての人が自由に手に入れることのできるものであるべきなのです。

 

そういえば数年前ニューヨークシティーの街角に、ゲリラ的なアートポスターが張られ、そこには有名な人気のボトルウォーターの絵、でもその中身は水ではなく空気が入っている、というものが描かれていました。このポスターの言いたいことは、私たちが自分たちの貴重な天然資源に対して何らかの保護措置を講じ、資源の個人所有化から守らなければ、資源はいずれプラスチックの海に埋もれてしまうというものです。カリフォルニアでは、希少な水資源が、ザクロやアーモンドといった特権階級向けの嗜好品を生産するための畑に灌漑(かんがい)されているのです。

 

これこそ経済をベースにした食糧難です。サハラ以南のアフリカでは、人々は水汲みという肉体労働のために本来の高い能力を奪われ、水を原因にする病気に苦しみ、その弊害は特に女性や子供に及んでいます。ウォールストリートで富の再配分を訴えるため、1%の特権階級の貯えを再配分すべきだということについてデモをしている人たちがいますが、彼らの内いったい何人が自分たちのことを、わずが1%しか手に入れられないクリーンな水を無制限に使える恵まれた立場にいることを認識しているのでしょうか。彼らの内いったい何人が高価なプラボトルに入った水を飲んでいるのでしょうか。

 

私たちは頻繁にインドを旅しますし、最近は中国にも旅しましたが、そこで興味深い見解・考え方を得ることがありました。一つは、地球が抱えるべき能力を超えてまで人口が増えると何が起きるのか、かなり明らかにわかるということです。私たちの周辺あちこちで、人々が毎分、毎日、毎週をまさにサバイバルするためにお互いから奪いとるのに必死になっているのです。

 

地球の水は失われていく、その水は人の存在を維持するためのものだけれど。「家族の暮らしは存在し続ける、そしてみんながいずれ死ぬ、そしてそのとき誰一人として、そんなことを覚えている者はいなくなる」(脚注2)ヒンドゥーの経典によると、カリユガ(現代)は素早く手ひどい形で終わりを告げ、私たちが知るすべての姿の生き物がすべて払拭されてしまうそうです。ヨギとしての私たちの務めは、その間もずっと心の内にある静謐を維持して、ダルマへの貢献のため正しい行動を実行していくことです。この世界が破壊されたら、後に続くのは新しい世界の創造なのですから。サッチャユガ(黄金時代)のあとにはトレタユガ(徳の少ない時代、農業の出現)、そしてドェパラユガ(タマシックな、不満、病気)そのあと私たちの現代カリユガ(427000年続く嘘、偽善、汚染そして水不足)と続きます。カリユガである間は、支配者たちは非理性的になり、もはや精神性を推し進めることもなく自らの主体性を守ることもしません、つまり彼らは危険な存在になるのです。人々は水や食べ物のある国を求めて、移動して渡り歩くようになるでしょう。強欲な考えを持つようになり、怒りや殺害、物質的な富の獲得にいそしみ、肉欲があり、食料やドラッグへの中毒性を持つようになり、生きている者たちを対象物(動物、人)として扱うことが生きる上での中心的な側面となるでしょう。そしてわずかの幸運な少数だけが師と師の教えを尊敬して生きることになるでしょう。

 

良い知らせもあります、それはカリユガ最初の10000年で黄金時代があり、そのときヨガの実践はまだ地球上に存在し続けているということです。こんにちカリユガの5000年が過ぎており、ヨガの伝統という知識に恵まれる5000年が残されています。私たちにはまだ時間が残っています、苦しみという泥の水を鎮め、この地に平和をもたらすための時間が。
(著: David Life  翻訳: Rei Miho Ueda)

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2018年月H2OM 水(エイチ・トゥー・オーム)

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