今月のテーマ

suhṛin-mitrāryudāsīna-madhyastha-dveṣya-bandhuṣu sādhuṣvapi ca pāpeṣu sama-buddhir viśiṣyate

友人、仲間、敵、中立者、嫌悪する人、親類、聖人、罪人だれにでも公平でいる人は、最高位に位置する。

バガバッドギータ 6章9

偉大な愛と共に全てが可能になる-パドマ

もしも、自分の指先で他者の人生を滅ぼすことが出来るなら、貴方はそれを実行しますか?

殺人を正当化するその基準をどこに定めますか?

(頬を叩かれて、その)復讐をする代わりに、何度、反対側の頬を差し出しますか?

これらは、きれいごとを言うための質問ではなく、様々な場面において様々な方法で考慮されてきたことなのです。
コロラドのリトルトンでの、男性が拳銃に指をかけて学校で発泡したにせよ、ハリー・S・トルーマンが広島と長崎に爆弾を落としたにせよ、どちらの出来事も、指先を使って他者を滅ぼすことのできるただの個人が、個人的な理由で思いを誤った悲しい行為なのです。
そして彼らはそれを実行したのです。(彼らが)何故そんなことをしたのか、自分自身に問いかけた時、「何故なら、それが出来たから」という答えしか無いように思える。

私たちは、ここ1年半の間、毎日少しづつマハーバーラタを読んできた。毎日、2,3ページだけ。
そして、今の事柄が過ぎていくことについて興味深い解説がしてある。時には、何も変わらないと思えることがある。
バガバッドギータは影響を与える書物であり、上座の存在であるかのようなヨガ的で自然の上に成り立つクリシュナの教えは時代をも超える。
しかし、クルクーシェトラ(インドの都市)での全ての戦いがサイコロゲームと傷ついたプライドの上に行われたという事実もまた時間に限定されない。ダルマについての質問やクリシュナの時を越える教え従うことについての質問は無かった。
兄弟を殺し、師を殺し、子供を殺す、それが変わることは無い。
毎日、何十億という動物が、その血液や死後の肉体を人が味わう為に犠牲となっている。
そして、この屠殺によって見えてくるものは、他者の命を究極な手段でコントロールするという無理な要求をして人々が自尊を集めなければならないということだけのように思う。これらの行動は、「地球が私たちに属している」という世の中の大儀によって容認されている。
そして人々はパーンダヴァやカウラヴァ(動物を狩り、食したクシャトリアの人たち)のように孤独で困惑した魂と共に暮らした。
昔、ちょうどアルジュナがクルクシェートラで行ったように、現代の殺戮の現場を見つめ、そこから出たところでクリシュナに自分たちに何が出来るのかと尋ねる。彼の時を越えても変わらぬ答えは、落ちつき、安定、哀れみ、許容、そして優しさを表している。彼はまた、こうも言っている。
待ちすぎて遅かった時は、最初からやり直し、またもう一度始めることしか出来ないと。
銃、爆弾、畜殺場は1つの物事だが、私たちの1人1人がこの指先に、他者の命を破滅させる能力として持っていることなのです。
インターネットでの陰湿な攻撃によって 犠牲者と何の接触もなく、いとも簡単に冷血に命が台無しにされる。

長きに渡り愛の伝統に関与してきたテルニのSt.バレンタインは、2月14日が記念日と制定された。昔のSt.バレンタインの日を覚えている。
とてもシンプルなことだった。紙から赤いハート型に切り取られたものが封筒の中に入っていれば、誰かが僕のことを気にかけてくれている印だった。”だけど、いまこうして小学生の時のことを想うと、「私のバレンタインになって」というシンプルな勇気づけと共に小さな封筒に入ったハートを受け取ったことのないクラスメイトが何人いたのだろうかと、ふと思う。

私たちは、自分のこの指先に、平和をつくる力、愛と哀れみを現す力を持っている。赦しの力を決して甘くみてはいけない。
過去の過ちを繰り返さないような選択を、他者がより良く生きていく為の選択を、意識して選択する人間は少ない。

神の自然は愛である。進化する魂としての私たちの未来は、この偉大な愛に対して楽器となって行う私たちの言動によるのです。
それにより全てが可能になる。

By David Life (訳 荒木沙実)

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2017.12 仲間の集い トライブギャザリング

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