今月のテーマ

私たちの両親と私たちのヨガの練習

Guru Brahma, Guru Vishnu, Guru Devo Maheshwara
Guru Sakshat Param Brahma Tasmai Shri Gurave Namah

私たちの創造主はグルである。私たちの生命の持続もグルである。
私たちの試み、病、そして惨事もグルである。グルは、すぐ近くにも、そして遥か遥か遠くにも存在する。
私は慎ましく私の奉仕をグルに捧げる。グルは、無知を取り除く美しい存在であり、いつ何時でも私の内にあり、私を取り囲む悟りの原理である。

グル ストートラムより。

グルは先生を意味します。悟りの原理です。ヒンドゥーにおける三位一体神のブラフマ、ヴィシュヌ、シヴァは、全ての出現における創造・維持・破壊の過程を象徴しています。
ブラフマは創造であり、私たちの誕生や両親、両親との関わり方や、母親が子を身ごもり、出産している間に曝された感情やエネルギー、そして文化と社会経済的な状況です。冒頭のマントラでは、私たちはこれら全ての事を教えとして学ぶ機会を与えられているのです。
西洋の社会においては、個性の発揮と人の手を借りずに全てを成し遂げることに対する称賛が増加傾向にあります。私たちは人々が私たちの為にそのドアを開けてくれている人のことを忘れてしまっています。そして両親がその責任において私たちの為にしてきたあらゆる犠牲を負うのです。私たちは感謝する代わりに権利を取ってきました。そして何が、生態系、地域あるいは家族を共在させているのか、その秘密をもはや知りもしないのです。私たちは、程度こそ違えども、皆、断絶という病気に苦しんでいるのです。
数年前に、深い愛情、畏敬の念、そして感謝の気持ちが処罰や圧制と勘違いされました。両親や先生そして高齢者に対する尊敬を表すことを拒否し始め、そのことを子供達に教えることすら無くなっていったのです。生徒たちが、両親のことを考えてみるように言われると、その場はとても静かに、重苦しく、そして涙目になるのでした。そのように私たちの多くは両親についての重い問題を抱え、そして彼らに話すことを完全に辞めてしまうのです。私たちは、遅すぎたということになるまで、表層下にある未解決の痛みと残った傷と共に生き続けます。両親は病にかかり、死ぬのです。誤解、下手なコミュニケーション、そして虐待的な繰り返しが、暗さ、困惑そして後悔のかたまりの中に残されているのです。
私たちの中には80代の者もいて、私たちの父と母は25年、土の下にいて、そして、私たちは今尚、自分の父や母が自分に対して施してきてきた酷い物事について考えて、日に日に自分自身を惨めにしているのです。私たちは死んだ者に対して今だに謝罪してもらうか、状況を何とかしてもらう事を待ち、これらの苦しみの全てから私たちを解放出来るのは私たちしか居ないという現実に気付いていないのです。
ヨガの練習は、どのように関係性を調和するのかを、私たちの最後から教えています。他者の肉体的な存在は、もはや求めるに及ばないかもしれません。私たちは、謙虚でいること、間違ったプライドを乗り越えて、そして、調和に向かって最初の行動を起こす強さを知る訓練を自分自身に課すのです。しばしば、それは広大なドラマでも悲劇を想像して感情を浄化するようなものではなく、ほんのちょっとしたエネルギーの転嫁であり、それは私たちの太腿で起きる螺旋状の動きを起こしたり、足の裏の土踏まずを内側から引き上げたり、あるいは足の親指の付け根を床に安定させたりすることと同等のことだったりするのです。これらは、とても小さく、殆ど目では確認出来ないような調節で、それが体全体にさざ波のように影響して、ポーズ全体のバランスを整えるのです。同じようにして、私たちの両親それぞれの良い性質の1つを見る事だけに意識を置くだけで、内側の小さな移動がもたらされ、そしてそれが完全なまでに関係性を変えるのです。両親とのあらゆる断絶は、自分自身の内なる断絶であるということを覚えておいてください。
私たちの両親や先生との関係を調和することが他の全てとの関係の鍵となります。私たちは、感謝のエネルギーを生み出すことで、外へ向かって他者に投影すること、他者を非難すること、他者の過ちを探すことを辞める必要があります。私たちは、ヨガ的な教えが特定の場合にのみ適用できて、それ以外では応用出来ないと予測する事をやめなければなりません。私たちは争いの中にある自分たちの責任の事実を、争いが自分自身の投影によって生じているという事実を、認める必要があります。虐待や憤りに応じることは自由への解放には導いてはくれません。赦すことだけが私たちの心を軽くしてくれるのです。赦すという行為は、他者のフックを外すことではなく、私たちの病、そして前進することを止めてしまう、その暗闇を私たちから落とすことです。赦すことは、魂の成長には不可欠なことです。マーチン ルーサー キングの有名な言葉があります。「私は愛と共に歩むことに決めました。嫌悪は背負って耐えるには重すぎます」。私たちが幼かった頃、両親のことを完璧な存在と見ていました。そして私たちが10代になると、両親が完璧とは違うもののように見えてきます。しかし、私たちの完璧に対する期待は残り、私たちの非難と共に衝突を定期的に創り出していくのです。私たちは、両親が常に最善を尽くしていると受け入れることが出来るでしょうか?両親がぶつかる困難や苦しみによって常にそのことを巧みに出来るとは限らないとしても?恐らく、私たち自身がいま親の立場に居たら、常に完璧であることは不可能であると分かるのではないでしょうか?時々両親は、子供に彼らの満たされない夢を強いることは出来ないのだということを忘れてしまいます。時々、母親は自分の抱えるトラウマによって、母らしい愛情を充分に与えられない事があります。それでも、母は母なりの最善を尽くしているのです。私たちは、自分は両親とは全く違うと願うこともあります。しかし、歳を重ねるにつれて、私たちは自分がどれだけ両親に似ているか気づくかもしれません。私たちは、両親の、そして先祖の繰り返しなのです。
もし私たちが両親を愛しているなら、何も言う必要はありません。私たちの愛は充分で、両親が去った後もその愛は続き、そして、両親は後悔などしないのです。マイケル・フランティが熟孝した美しい言葉がここにあります。あなたの父親は、単に愛に落ちた普通の男なのです!

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