2023.9

サントーシャ:何ひとつ欠けていないと思える心の状態

SANTOSHA – THE STATE WHERE YOU ARE MISSING NOTHING

by Camilla Veen |

santoṣād anuttamaḥ sukha-lābhaḥ 

サントーシャード アヌッタマハ スッカ ラーバハ

サントーシャ=心の安らぎを実現することで、ほかに比類のないほどの幸福を手にする

(ヨガスートラ2章42節)

ほかに比類のないほどの幸福」だなんて、ちょっと考えてみてください。あまりにも幸福で、これまでに感じてきたあらゆる幸福をしのぐほどの幸福、ということです。それって、すごいと思いませんか? 人として生きるこの現世で、そんな幸せを経験することができるのでしょうか?

何かについて幸せだなと感じるとき、多くの場合、その幸せが永遠に続くものではないということを私たちはわかっています。その瞬間、起きている物事について、どれほど幸せな気分であっても、どれほどの満足感を得ていても、その感覚はいずれすり減って薄くなり、私達はまた新しい喜びを探し求めようとするものです。このように、人が喜びを求めたり、不快なものに対してしり込みしてしまうことが、人の苦悩する主な原因であるというのが、多くのスピリチュアルな伝承において一致している考え方です。感覚的な満足感や、外側からの刺激的な状況がもたらしてくれるような「ふつうの」幸せは、まさにそのハッピーな感覚がそもそも一時的な性質によって引き起こされたものなので、決して長続きするものではありません。では、いったいどうすれば本当の意味で長く続く幸福を見つけ出せるのでしょう?

パタンジャリ師は、スートラ2章32節で述べているニヤマのうちの2番目として、サントーシャの実践を私たちに教えています。サンスクリット語で「サントーシャ」は英語に直すと「本当の満足感(real contentment)」といったような意味になります。「サントーシャ」の最初の語(接頭辞)である「サン(sam)」は「完全に」とか「全体的に」といった意味で、「トーシャ」はその語源の「トゥス(tus)」から「安らぎ」「満足」または「受容すること」を意味します。ニヤマは道徳的な行為または奨励される習慣のことですが、というのも衛生的で健康的な生活を営むということが、ひいては自分自身との関係性をよりポジティブなものにするからなのです。ほかにも、ニヤマとは、シャロン・ギャノン師の表現でいうなら、「ヤマ」を「してはいけないこと」と言うのに対して、「ニヤマ」は「するべきこと」とも言えます。習慣という行為について大事なことは、それが規則的に行うことをベースにしていることです。なので、ニヤマの実践から本当の利益を得るためには、私たちの日常のルーティーンの一部としてニヤマの教えを日々の生活に取り入れて行うことが重要なのです。

「サントーシャ」を理解する方法のひとつを、ヒンドゥ神話の物語から得ることができます。ヒンドゥの神話に出てくる「サントーシャ」は、ダルマ神と女神トゥシュティの間に生まれる息子として擬人化されています。「ダルマ」とは、サンスクリット語の「ドゥル」が語源で「包括するもの」の意味なので、「義務」や「法」、「智慧を拠り所として生きること」と定義されます。「トゥシュティ」は「満ち足りていること・安らぎ」の意味があります。 これにより理解できるのは、「サントーシャ」が智慧や義務をベースにしてこそ得ることのできる「満足・安らぎ」の体験であり、決して表面的なレベルで起きる出来事に「いい気分だ」と感じるようなものではないことがわかります。ダルマとは宇宙的な存在の基本原理ですから、その性質からしてそもそも不動で安定しているので、サントーシャはつまり「安定的な幸福感」を意味するのです。それは常に変化し続ける性質のもの(一般的なハッピーな感覚)とは別物なのです。

ヒンドゥの経典「ヨガ・ヴァシシュタ」によれば、「幸福・満足」は4人の兵士の一人であり、その兵士たちは「悟り・解脱=モクシャ」の入り口の門番をしています(ちなみに「幸福・満足」以外の三人の兵士たちは「忍耐」、「自己探求」そして「賢者たちとの結びつき」)。なので、「悟り・解脱」に到達するためには、まず最初に「幸福・満足」と繋がらなければならないのです。多くの場合「悟り・解脱」の状態は「梵我一如(oneness of being)」と表現されます。そしてその状態で経験するのは、真我との一体感です。小さい自我、個別の自己意識(ego self)として自分をみなす認識とは異なります。私たちの先生にとっての師であるシュリ・ブラフマナンダ・サラスワティ師は、かつてこう述べています。「ヨガとは何も欠けたところや足りないものがない状態、すべてが完全で完結しており、OKな感覚、甘い桃の果汁の海に浸っている感覚である」。

時をかけて継続的に何かを習練するとき、その修練実践はどんどん深まり、そうなってようやく結果が実を結び始めるものです。ヨガスートラ2章42節によると、「サントーシャ」を絶え間なく習練すれば、その結果として得るのが至高の比類のない幸福である(anuttamah sukha アヌッタマ スッカ)と述べられています。「幸福・満足」はどうやったら練習・実践できるのでしょう?それは、強いこだわりのある渇望や欲望のない心を育むこと、欲なんかではなく内なる平和を探し求めることにフォーカスすることです。それは、 世界をあるがまま受け入れて、いますでに自分のものとして持っているものごとに感謝することです。それは、いつも何かを「もっと」とか、すでに持っているのにそれ以上に「ほかにも」欲しいなどと思うことを手放すことです。こうした習練は、また別のヨガの実践で、スートラの1双12節に「ヴァイライギャ」と呼ばれているプラクティス(“abhyāsa-vairāgyabhyāṁ tannirodaḥ”アビャサ ヴァイラギャビァム タンニローダハ)と密接に関係しており、バガヴァッドギータのメイントピックの一つでもあります。こうした考え方に沿って考えると、落ち着きのない心を静めるキーになるのは執着のない心、または世俗的なモノ・コトへの関心から離れることにあるのです。 ゆっくりとですが私たちも気が付き始めています、幸福の源は私たちの内側にあって、外側からつかんで持ってくるようなものではないということを。「幸福・満足」は内側から、外側へと発展していくものです。エドウィン・ブライアント氏(インド言語学者)はその著書「パタンジャリのヨガスートラ(‘The Yoga Sutras of Patanjali’)」のなかでこう述べています。「この世界にある楽しみのうち、どんな幸福感も、あるいは天空界にあるそれ以上に素晴らしい幸福感も、欲望を断つことで得られる幸福感の16分の1にも及ばないものだ。」

(著:カミラ・ヴィーン by Camilla Veen  翻訳:Rei Miho Ueda)