2024/02

ENJOY THE SILENCE

沈黙を楽しむ

Gate gate paragate parasangate bodhi svāhā

消えて、消えて、真に消えて、極地さえも越える。最も崇高な智慧は全てが落ちて無くなった時に残る。

伝統仏教より

「沈黙は発話よりも効果を成す。沈黙から思考が訪れ、思考からはエゴが、そしてエゴから発話が。それゆえ、もし発話が効果的であったら、根源の存在は果たしてどれだけの効果があるものか。

ラマナ・マハルシ

ラマナ・マハルシの言葉に少しだけ浸る時に貴方を招待しましょう。目を閉じて、自身の内側を見つめてください。ほんの少しの間でいい。そのまま居て、貴方の沈黙の中に居ること。ラマナマハルシの言葉は「心の域」を見る入口、そして、至福、喜び、平和、妨げの無い現存である、ありのままの私たちへ通じる道である沈黙の探求への入口なのです。発話をやめることで、エゴを静め、思考を落ち着かせ、そして沈黙へと戻ることができます。

ならば、沈黙とは何か?外界のノイズからの解離か、発話の休息なのでしょうか?それとも、自分の注意を内側にシフトする能力、外界の刺激が薄れていきノイズと発話の中で静かに居られる能力なのでしょうか?そして、内側のノイズとは何か?たとえ完全に静かな空間で座っていても、マインドとマインドの注意は騒がしく、圧倒されていることもあります。

沈黙の中で座ることは簡単なことではありません。マインドはしょっちゅう色んな方向へ引っ張るし、違う道へと落とし入れます。ヨーガスートラ1章2でマスターパタンジャリが言うように「yogaḥ citta-vṛtti-nirodhaḥ 」ヨガはcitta(マインドの出来事)の中でのvritti(誤った自己解釈)を終わらせること、なのです。パドマジ(シャロン・ギャノン)がシェアしている彼女のコメントは「貴方の思考、マインドの変動が自己であるという認識を辞めた時にヨガがある。自己の認識、それはサマーディであり、幸福、至福、そしてエクスタシーなのです。」ヨガの練習は内側の沈黙を養うのに力強い道具として提供されています。見る者として座り、思考や発話の方向に引っ張られることなく、マインドが留まることを許すという練習ができたなら、その時に私たちはありのままの私たちを経験することが出来るのです。 沈黙は自己認識への導体です。私たちの思考やアイデンティティを越えて、私たちの至福の深淵へと深く潜る路を与え、私たちが誰なのかという真実を再発見するのです。マインドを観察することで私たちは自己の気付き、内観、そして私たちの真の性質への空間を創造するのです。

私は80年代後期にニューヨークで育ち、都会の環境からくる感覚的な刺激に継続的に囲まれていました。この継続的な刺激の流れの中で、反対の経験を提供する空間がありました。沈黙の気付きの避難、熟考と集中の為の場所。私の最初の沈黙の記憶は、10歳頃の変化する少年期の時でした。けれども私はさほど宗教的ではなく、着飾ることと奉仕の存在であることに熱心でした。私はこれらの中でも、その神聖な空間が毎回の奉仕の始まりの時にシーンと静かな事を最も楽しんでいました。それは瞬間的に穏やかで静かな、確かな平和を私にもたらしました。それは、よりマインドフルに、そしてはっきりとした感覚を育んでその空間を動き回ることを許容してくれるものでした。それは時間が存在しない場所でした。外側の沈黙は私の内側の沈黙を再現する空間を与えました。オルガンの音楽が始まり、教会が人で沢山になると、すぐに私の注意は沈黙から説法やその発想へシフトし、ここにエゴが私の体験を引き受けるのでした。その頃の私は、自身の平和の中に留まる術や、私の沈黙の経験を外界や内側のノイズに邪魔されないようにする術を持っていませんでした。ヨガの練習は、マインドで継続している活動を観ること、それらの活動が徐々に沈黙へと浸透していくのを観察すること、そして私自身を無空に、無空に、無空にすることを可能にしてきました。ギャテ ギャテ パラギャテ パラサンギャテ ボーディ スワハ。この祈りは仏教書として知られているHeart Sutraの最後に記されています。仏教哲学の要素において最も深い表現は無を表しています。ジヴァムクティチャントブックでは、次のような訳が呈されています。消えて、消えて、真に消えて、極地さえも越える。最も崇高な智慧は全てが落ちて無くなった時に残る。私たちの世界の見方は、私たちのマインドの投影、そして私たちの注目するものの投影でしかありません。私たちがマインドへの執着を手放したら、私たちは無を経験する事ができます。それは私たちの変わることの無いありのままの至福と現存、マインドの継続的な幻想からの解放、を観させてくれるのです。

沈黙の中で座る度に、私たちはマインドのノイズを薄めていく能力を培い、思考をほどいて行くことを許容し、そして観察者となるのです。沈黙により、私たちはマインドの中の静けさを養うことができ、これにより、練習が私たちのありのままを経験する場となるのです。沈黙は貴方の心の中の平和に耳を傾ける機会を、私たちの直観、存在の空間と、再び繋がることを与えてくれます。沈黙に深く没入することは、気付きと共に座る事から始まり、気付きと共に歩き、そして純粋な気づきの中でヨガアサナを行うことです。この沈黙と無空の広がりには、貴方のありのままの存在から貴方を引き抜く衝動の力も外界の邪魔もありません。この場所の表現を私たちはいくつももっています。無になる、沈黙になる、平和、喜び、幸福、至福、エクスタシーなどと続きます。事実、この場所は名前を持ちません。名前が無いのです。この場所を知ることは、貴方の真実であり、普遍で、常に在るのです。それは外界の世界が圧倒的に疲弊するような時に私たちの避難所となるのです。デペッシュ モードの有名な歌にはこうあります。「僕が欲しいものの全ては、僕が必要としているものの全ては、この僕の腕の中にある。言葉など必要ない。言葉には傷つけることしかできないんだ。」

沈黙を楽しんで。