FOTM 2023 April

Satya—Lead me from the unreal to the real

サティア(真実・誠実):私を偽りから真実へと導く

「サティア プラティシュターヤーム クリイヤー パラーシュラヤットゥヴァム」

(ヨギがサティア=誠実性に安定するとき、そのヨギは自分の行為の成果を労苦することなく獲得する)(*ヨガスートラ2:36)

パタンジャリ師が言うには、ひとつの事物を見るとき、見る人(プルシャ)と見られる対象物(プラクルティ)との間に、分析力あるブレない知識(ヴィヴェカキャーテ)を養おうとするならば、マインドの浄化が必須です。ヨガの八支則を実践することで、マインドの不浄(クレシャ)は焼失されます。

サティア=真実・誠実とは、ヴィヤーサ(*マハーバーラタの著者とされる聖人)の定義によると、その人の「言葉・言論」とその「心・思考・マインド」とが現実に一致していることであり、これは八支則の第一の規則であるヤマ(ヤマーハ)=「抑制・規制」、つまりモラル的にもスピリチュアル的な視点からもするべきではないとして、慎むべき項目に該当します。

もしも、故意に偽りを語ると、いったい何が起きるでしょう?何らかの個人的な利益のために、現実を隠し事実を歪曲してまでも、ほかの誰かのマインドを操作しようとするでしょう。自分の計画に沿ったストーリー、つまり事実とは異なるストーリーを信じ込ませようとほかの人をだまそうとしますが、その小さな嘘が、何年もかけて築き上げてきた信頼関係をどれだけ台無しにしてしまうのか、たいていの人はすっかり見落としています。ヨギならば、何が真実であるのかを知ろうと一生懸命になるものです。その場合の真実とは、究極の真実のことであり、それによってこそ完全なる自由がもたらされるのです。何が真実であるのかを知りたいと望む気持ちが強いからこそ、真実・真理に対する完全なリスペクトと愛がそこにあり、だからこそ個人的な利益なんかのために人の心を操作するなどというのは、ヨギである彼・彼女が求めているものとは完全に真逆に対立することなのです。

真実・誠実とは、ちょうど後に続くそのほかのヤマの項目をプラクティスするのと同じように、ヨギが一点のシミもないほどに製錬するために、そして非暴力(アヒムサ)を完璧にするために、実践によって行うものです。そのため、その人の言葉・言論は、すべての生きとし生けるものの利益となるように、という思いで責任をもって発言すべきなのです。ヴィヤーサが述べているように、誰かを傷つけるような言葉・言論は真実・誠実ではないし、だからといって、善い行いや善意を模倣するだけでは心に闇を引き入れる結果を招くだけです。たとえ話をするならば、禁欲な生活を送っている人がいるとして、その人の厳格な言動は「真実・誠実」が中心にあるので、もし盗賊たちに「いま金持ちのキャラバン(一族)が通過したが、彼らはどこに向かっていったのか?」と尋ねられたら、盗賊たちにキャラバンが向かった方角を正直に伝えてしまうでしょう。こうしたことは、パタンジャリ師によるならば、「真実・誠実」とは考えられない行為なのです、というのも誰かに害が及ぶ結果を招くからです。自分がこれから言おうとすることに多少でも疑問を感じたら、自問することです、「これは真実なのか?」「これは親切なことなのか?」「これは必要なことなのか?」と。瞑想のリトリートでは多くの場合、あえて高潔に沈黙することを実践(プラクティス)します。それは、これから瞑想の修練を積もうとする人が、その修練コースの初めに心に決めたサティアの誓いや教えを破らないようにするため、という理由からではありません。私たちが何か話すとき、出来事を誇張したり、話を面白くするために大げさに盛ったりする、などというのは容易に起こりうるものです。そんなことは私たち皆がやったことがあるでしょう。けれど、もしあなたが本当にしっかりと真実に根付いていたいと望むなら、ただ単に話を誇張することさえも現実の歪曲になってしまうのです。

パタンジャリ師はスートラの2章36節で「真実に根付いている人の行為は即座にその結果を得るし、また成功を結実する」と述べています。そのような人は物事を見るとき真実にあるがまま見るし、そこには現実に対する完全な理解があるからこそ、その人の行動はより現実的なのです。そのような人は信用に値するし、信頼できます。

そこで、こんな疑問がわいてきます、「どうすれば自分が言っていることが真実だと確信できるのだろう?」と。ヴィヤーサによると、私たちの言葉・言論は、ヨガスートラ1章7節に述べられている「重要で確実な知識を得る3つの源(みなもと)」に合致しているべきだと説明しています。その3つとは、①直接的な認知(直接に見る、聞く、など私たちの五感知覚によって得る知識)と、②推論から得られる結論(推理法・論法を使って得る知識)と、そして③適格な資質を持った人物による証言や経典から得る知識、の3つです。ということは、情報が正確であると検証されたのか、真実であると証明されたものであるのか、を確認するのは私たちの責任なのです。私たちの生きる現代社会では、毎日受け取る情報のほとんどが直接自分で認知・確認したものでもないし、きちんと推論されたものでもないし、ましてや権威ある適格者からの情報でもありません。むしろ情報のほとんどはSNSなどソーシャルメディアとかニュース番組などから得ているので、私たちは常にそれらの情報源が信頼できるものであるだろう、という考えに基づいて、自分が信じる事象や意見を述べたり、それを誰かとシェアしたりしているけれど、そうした情報の多くは、ある種のイデオロギーによって偏見があったり、矛盾があったりして、情報を手にする大勢の一般の人たちの考え方・態度を巧みにごまかそうという計画的な情報であったりするため、ある人にとっては利益になって豊かになるのに、そのほかの人にとってはそうではないというような結果をもたらしています。たとえばミルク瓶のラベルに、緑の草原で草をはむ牛のイメージが貼ってあったりすると、「こうして乳牛たちは暮らしているのね」と誤って信じ込んでしまいます。現代という時代にいる私たちは、何が真実で、何が真実でないのか、識別するのが難しくなってきています。ヨギのマインドでいる、ということは、調査官のようなマインドでいる、ということです。調査官のマインドとは、現状に疑問を抱いたり、それぞれの文化で何の疑いもなく再生と模倣を繰り返してきている事柄や、間違って信じ込んでいること、などを解消しようと努めるようなマインドでいることです。

真実とは客観的で、誰にとっても同じものとして、そこに存在する≪ある≫ものです。信念・信条(*個人が何を信じるか)とは本質的に主観的なもので、作られていくものでもあり、ゆえに変化もします。そのことを踏まえて、信念・信条における違いに向き合うときは、寛容であるのがベストです。自分自身の信条・信念も、そして他の誰かの現時点での信条・信念も、真実に基づいていないかもしれないのだから、そうした話題に対しては、より深い調査・精査をするような心がけを持って、寛容な精神で親切な会話をするのがベストな行動の道筋なのです。いかなる相対的な真実(*「絶対的」の反対語としての「相対的」)も、部分的・不完全な真実(*「完全な」の反対語としての「部分的・不完全」)でしかないのだ、ということを心にとどめておくことが謙虚な姿勢であるといえるでしょう。

ラマナ・マハルシ師(*南インドのヒンドゥ聖者)はこう言っています、「世界は幻想的なものだ、ただブラフマンだけが本物・真実だ。世界はブラフマンだ」。そして彼に言わせると、沈黙はもっとも雄弁な言葉・言論なのです。こうした考え方においては、時間と空間は相対的なものにすぎず、マヤ=幻想を作り出すツールでしかないとみなさています。「すべての別離・乖離、あらゆるタイプの疎外や孤立は虚構である。あなたが人として存在しているのは、時間と空間の幻想によるものだ。マインドは時間と空間の概念を作り出し、自身が作り出したその概念を現実だと思い込んでいる。」とはニサルガダッタ・マハラジ師(*インドの非二元論の教祖)の言葉です。本物・真実とはいったい何でしょう。その疑問に対する答えを見つけるために、私たちは今ここにいます。

(著:オルガ・オスコルビナ  *は訳注)