2020/6 Opportunities: チャンス-


vastu-sāmye citta-bhedāt tayor vibhaktaḥ panthāḥ (YSⅣ.15)
客体は同一であっても、それを受け止めている心が様々であるから、認識も異なる。(ヨーガ・スートラ4章15番)
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-黄鶴楼-昔人已に 白雲に乗じて去り此の地空しく餘す 黄鶴樓黄鶴一たび去って 復返らず白雲千載 空しく悠悠晴川歴歴たり 漢陽の樹芳艸萋萋たり 鸚鵡洲日は暮れて郷關 何れの処處か是なる煙波江上 人をして憂えしむ

伝説にある仙人はすでに黄色い鶴に乗って飛び去ってしまった。この地にはただ黄鶴楼だけが空しく残っているだけだ。飛び去ってしまったあの黄色い鶴は、二度と戻ってはこない。ただ白い雲だけが、千年を隔てた今もゆったりと浮かんでいるだけである。晴れ渡った長江の向こうには、漢陽の木々がはっきりと見え、中州の鸚鵡洲には春の草木がかぐわしく生い茂る。日が暮れてきた。故郷はどちらの方向だったか。川面を覆う靄が私の憂いをかきたてる。

-崔顥『黄鶴楼』より

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2020/5 

sarva-bhutastham atmanam sarva-bhutani ca-atmani iksate yogayukta-atma sarva-tra sama-darsanah BG VI.29

ヨギはいつでもあらゆる存在に神聖な自己を見る。

ジヴァムクティヨガ チャントブック19頁

動物愛護のヴィーガン活動家の友人が、お題についてより良い話し手になれる何かヒントは無いかと聞いてきました。「誰に話をしようと思ってるの?」と私は聞きました。「一般の人よ。典型的な、無知で小さなアメリカの街に住む人たち。ビールを飲んで、小型貨物自動車に乗って、フットボールを見て、狩や釣りが好きで、だいたい共和党ね」と彼女は冷笑しました。 「それで、その人たちと何が話したいの?」「ヴィーガンになってもらいたいのよ」「本気で言ってるの?」 「どういうこと?もちろん本気よ!」「分かったわ。ただちょっと確かめただけよ」「確かめるって何を?」「ただ自分の怒りをぶつけようとしているだけじゃないかどうかよ」「そうよ私はその人たちに怒ってるわ!」「その人たちと話をするのに、その怒りはあなたにとって価値があるの?」「んー、ヴィーガンのメッセージを伝えたいのよ。その人たちにもっと優しい人間になってもらいたいの」「それなら、その人たちを優しい人間として、神聖な人間として見ないと。」「いいえ!彼らは神聖な人たちなんかじゃない!彼らはヨガの人たちじゃないもの!無知で、愚かで、はなはだしくて、自分勝手で、偏屈で、大体が人種差別と家庭内暴力をするわ。ほんと人間のくずよ。」「その人たちを神聖な人たちと見ないと」私は再び言いました。「出来ないわよ!」「その人たちを、優しさと慈愛を持つことのできる神聖な人たちだと見ることが出来ないなら、そうなることをどうやって期待するの?」「しばらくそれについては考えるわ」影響力のある話し手になり、人々を、動物に対して敬意を持ち、親切で慈愛があり、動物を食べることを止める人間になるよう自分の言葉で動かすためには、まず最初に自分自身が喜び溢れるヴィーガンになることです。あらゆる人が、親切を施したり、共感したり、慈愛の対象となる機会を与えてくれている者として見ましょう。誰に対しても、その人が悟るために自分を必要としている、意地悪で、愚かで、慈愛に欠けている人物なのだと見ないこと。あなたが話しかけるその人が慈愛の無い人だとみるなら、どうしてその人がその人自身の慈愛を自覚すること出来るでしょうか。誰かに話す前に、自分自身に問いかけましょう。この人に、その人自身のことをどう感じて欲しいのか?その人の最高の潜在能力を見る大きな心を自分が備えているのか?そうなるためには、彼、彼女が振り向くためのスペースを与えるために、彼あるいは彼女に対するあらゆる否定的な考えを率先して放棄しなければなりません。誰かに話をする時、その人があなたの根底にあるのが軽蔑なのか、それとも尊敬なのかをその人は感じることが出来るのだと心に留めておきましょう。そして、それによってその人はあなたの言うことを聞き入れる事が出来るかどうかを決定するのです。彼ら/彼女らに話をするのは何がゴールだからでしょうか?あなたの怒りをぶつけたり、意地悪をしたり、自分の優性を誇示したり、ひどく叱りつけたりして、その人に罪悪感を感じて欲しいのでしょうか?あるいは、その人たちにより良く変わってもらうように、そして動物が苦しむ原因となる人間にならないように、そのための力を与えたいと本当に思っているでしょうか?本当にお肉を食べて欲しくないと思うなら、その人の中にあるその潜在能力を見て、その潜在能力に対して話をしなければなりません。活動家についての最も大きな誤解は、愛や受容よりも嫌悪と怒りの方が強い動機になっていると考える事です。 世界が自分に迫り、そしてそれに対して戦わなければならないと思う時、あなたは戦争に交戦しているのです。そして戦争は決して平和をもたらさないだけでなく、あなたの中の愛の力を動かすことも出来なくなるのです。ヴィーガンと肉食の人、良い人と悪い人、被害者と加害者、これらを分けた世界とすると、結果はより分割されたものとなり、私たちが探していると言う平和で統一された世界になりません。活動家についての一般的な誤解は、攻撃性のない支持の効力に対する困惑から始まります。攻撃性は支持に反して対立的で反抗的です。攻撃的でない支持の表現は、締まりが全く無く、無駄で、逆に攻撃性と結びつくような支持の方が効果的だ、という一般的な認識は誤解です。 自分の目的を効果的に押し通すために攻撃性が必要だとする考えでは、引出された変化も、あらゆるコミュニケーションのチャンスを密かに阻害し、コミュニケーション無しでは、問題に対して知的に解決することは不可能です。単に自分の怒りを表すだけでは、継続的で効果的な変化を作り出すことは出来ないのです。長い目で見た目標は、問題をより深くみるようになり、全てを含んだ解決策を打ち出すようになります。二人の人間が争うということは、個が異なっていると捉えることなのです。会話を始めるためには共通の基盤を見つける能力が不可欠です。そうするためには、自分が相手に持つかもしれない敵意や軽蔑を取り払わなければいけません。支持と同様に攻撃も行動、言葉、思考の形に現れます。 自分が彼ら/彼女らに対してどう感じているかをその人はいつだって感じることが出来ます。そしてそれがあらゆる相互作用を決定するのです。再度言いますが、もし、他者が潜在的に優しく、慈愛ある存在だと見ることが出来なかったら、どうして彼ら自身がそういう存在だと分かってもらうことが出来るでしょうか。相手の良さを思い、その人の幸せを望むことは、たとえ今はその人の考えや行動に同意できないとしても、それがスピリチュアルな活動の鍵なのです。 あなたの視点に賛同しない人と会話をすることになった時、自分自身の忍耐という場所から来たのだということを確信してください。ダライ・ラマはこう言います。「私は、誰であろうと会う人は古い友人として扱います」「このことが私に本当の喜びを与えてくれるのです。これが慈愛の練習です。相手が否定的であっても、本当に慈愛ある態度は変わることが無いのです。」そして、ハーバードの教授であるアーサー・C・ブルックスはこう言います。「もし相手に対する軽蔑の念を感じたら、相手に温かい心持ちを持つ練習をしよう。ドクター・マーチン・ルーサー・キングは、このことをこう言っている、「あなたの根底にある軽蔑の念を感じることの出来る誰かとの間に道徳的な基盤はない」」

2020 April Focus of the Month

The Crown of Creation 創造物の王位の冠

この大いなる世界それはつまり私達の大いなる心であり、私達の選択がこの世界と心にどれほどのインパクトを与えるか、意識を持ってさえいれば、社会の一員としての認識はさらに広がり、私達が地球の生命の一部だという理解になる。私達はお互いの夢の一部であり、お互いの深層の一部、お互いの祈りの一部、私達はお互いの大きな望みの一部で、お互いの欲求の一部、私達はお互いの充足感の一部なのだ。社会の中や、私達自身にも、体の中にも、神経組織の中にもある、恐怖のレベルを減らそうと思うなら、踏むべきプロセスはすべて同じ。日々の暮らしの中で行うすべての物事に疑問を抱くことだ。環境活動がもたらしている前進のひとつは、私達がどれほど自然界と相互に結びついているかを認識させてくれるということだ。私達が森林に対してしていること、私達が海洋にしていること、河川に対してしてること、大いなる生物圏に対してしていること、それらはすべて必然的に自分自身にしていることになる。空気を汚染すれば、私達自身を汚染することになる。私達がすべての生物の生命と、互いに関係し合い、互いにつながっている度合いがどれほどのものか理解すれば、私達はもはや皮膚で守られたエゴとして狭い範囲で生きる道を見つけようとする小さな自己ではなく、生命それ自体を運ぶゆりかご・乗り物になれる。私達はもっとより高い自己へと、本当の自己へと、真実の自然へと、大きく発展できる。

・・・ジョン・ロビンスの歌「Is this a bridge Exactly」オーディオレターより

コロナウィルスは動物原性感染症の病気、つまり動物から飛び出したウィルスが人類に発生した病です。奴隷のように隷属され、捕らえられ、苦しみのもと監禁されている動物たちのストレスが、病理弊害をもたらすことは知られています。私達は過去のパンデミックからこの事実を知っているのです。突然変異によって病気が生物の種を飛び越えるという現象は、例えると旋毛虫寄生や結核、元々は豚にみられた病気であった豚インフルエンザ、鳥から発生する鳥インフルエンザ、馬痘が変異して天然痘になったり、ウシ科の牛疫が麻疹になり、クロイツフェルトヤコブ病が人間にとっての狂牛病になったりしました。2003年のSARSパンデミックに似ているとされる現在のCovid-19(新型コロナウイルス)はコウモリから感染したものと考えられています。科学者の多くがAIDsについて野生動物の肉を通して人間に広がったと考えています。2014年、アフリカを起源としたエボラ出血熱の大発生は野生動物の肉を食べたことが原因だと信じられています。野生動物の肉というのはコウモリとかアンテロープ(アフリカ産のウシ)、サル、ヘビ、ネズミなど多くの野生に生きる動物の種のことです。

もうそろそろ動物を食べるなんてことをやめてもいい時なのではありませんか?動物を捕まえるのをやめていい時ではないですか?動物たちをケージにいれるのをやめる時じゃないですか?彼らを暗い倉庫や飼養場や納屋に監禁するなんてやめる時じゃないですか?動物たちを商品として飼育するなんてやめる時じゃないですか?彼らを世界中で毎年何十億という単位で殺戮するなんてやめる時がきたのではないですか?ほかの誰かが動物を食べようという選択をするときそんなことを言うと、それは彼らの選択であり関わりのないことだという人がいます。でもそれを言うなら最近のコロナウィルスの発生についても中国の動物市場は私達の選択から発生したものであるとも言えるのです。動物を利用して虐待するいかなる場所のことも私達にかかわりがあることなのです。動物を隷属し、搾取し、虐待することがあらゆる国で、陸地で、海で起きているのです。それは株式市場が最初にできてからこれまでずっとグローバルエコノミー(地球規模の経済活動)の基礎を作り上げてきたのです。

そうです、いまこそ中国やほかの国々とって生物の売買や、取引、野生動物のいる現場で殺戮する市場を閉鎖するよいステップなのです。しかしそれだけでは根本的に撲滅することにはつながりません。コロナウイルスを運んでくる野生動物を非難したり、コウモリをすべて駆除したいと考えるのは、私達の母なる自然に対する文明戦争の一例といえます。恐怖心をすべての野性的な物事に対して拡大させながら、一方で私達は他の生物に対する優位性を築き上げてきたのです。他者を非難しても決して妥当な解決法にはなりません。

中国とか他の場所を非難して指さすことは、世界中で私達がやってきたこと、つまり動物たちを農場やケージに監禁する、というようなことを無視する行為です。中国の動物市場と違いがあるとすれば、私達の市場では動物を薬漬けにして人目に触れないように隠してきた、ということくらいです。USDA(米国農務省)によって処方された抗生物質を大量に投与しても、その他の健康に関する組織がアグリビジネス(企業的農業)を規制しても、過剰に混雑した工場化農場や屠殺場があるかぎり、寄生虫やバクテリアなど新たに生まれた病原菌とウイルスなどを含む、あらゆる抗生物質に耐性のある病気を生み出す土壌になるのです。屠殺場や農場は清潔な場所とは言えず、そして絶対に心優しい場所ではありません。屠殺場や農場は恐怖と暴力の場です。動物たちは傷つきやすく、ストレスを受けて、病気になり、恐怖心に満ちています。豚インフルエンザを思い出してみてください、2010年に地球規模のパンデミックを起こし、世界中で何十万人もの人が亡くなりましたが、家畜化した豚と動物を利用しているアグリビジネスとの関連性があるために、多くの部分が世に知られず曖昧にされたままになりました。

私達は過去を振り返ることで新たに学ぶことができます。しかしそれでもなお、大きな疑問として残るのは、「では、いま、なにをするのか?」です。いま、一人の個人として、責任を逃れて他者を非難したり、不平不満を言うべき時でしょうか。恐れを抱いて生きるのか、それとも怒って政府のリーダー達に対してこの事態を何とかしてくれと要求をするのでしょうか?この事態に目を背けて見ないふりして陽気に騒ぎますか?手を洗ったり、トイレットペーパーを買い込むのですか?科学者達が早く解決策を見つけて、私達にワクチンを与えてくれて、もとの普通の生活に戻れるようにと期待して待つのでしょうか?もとの普通の生活といっても、それは全然サステイナブル(地球環境を維持する)とは言えない生活であり、しかも次のパンデミックが起きるまでの生活だとわかっていて、そんな生活に戻れるようにと期待して待つのでしょうか?こうした状況下だから、恐怖や怒り非難が正当化されるのでしょうか?それで本当に救いになるのでしょうか?ヨギとして、私達は責任もって自分の行為を浄化すべきです、そうすれば他者に対するインパクトを最小化できるのです。どんなことでも他者に対する行為は必ず私達に返ってきます。私達自身の健康も、幸福も、悟りも、他者にどう接するかによって決まるのです。生命のすべては互いに依存しあっているのです。私達が互いにする行為がすべての人に影響するのです。他者に不幸をもたらすことで本当の幸せを得られる人など一人もいません。これは他の動物や、地球環境を含めて同じことが言えるのです。もしも私達が自由を価値あるものと思うなら、私達のつとめは生命すべての自由解放(悟り)であるべきなのです。

コロナウイルスの「コロナ」とは王位・冠を意味する「クラウン」のことです。人類は長い間自分たちが創造物の王位にあると感じてきました、それはあらゆる姿形をした生き物たちの優位にあるという考えです。そんな私達の傲慢が、「力あるものが正しい」という態度を正当なものにして、目先の利益のために他者を隷属したり搾取することを正しい措置だとみなしてきたのです。きっと母なる大地・自然は、私達の欲求にただ答えて、人間達が自分にふさわしいと主張するクラウン(王位の冠)を与えただけなのです。かつて1960年代にジェファソン・エアプレインのヴォーカルだったグレース・スリックが、こう歌っています、「君は創造物の王位、でも君には行くべき場所がない」…これは現代の私達にとって目覚めを促す警告と受け止めるべきなのかもしれません、つまり私達は皆、この小さな星に閉じ込められて生きていることを自覚するべきだという警告なのかもしれません。この危機的状況にある今、一つのよい機会として、この薄汚れた身の丈に合わない王位の冠を脱ぎ捨てて、謙虚にその裸になった頭を垂れ、創造物と神に対しての畏怖と尊敬の念を、そして愛のある貢献をするべき時ではないでしょうか。

Teaching Tips (教えるときのヒント)

このエッセイ(またはその一部)をクラスに出席している練習生に読んできかせましょう

Essential Teaching & Safety Tips (教えるときのエッセンスと安全のためのヒント)

誰一人として新型コロナウイルス(Covid-19)に感染するリスクを完全に除去できる人はいません。社会的に距離をおくために休む、人から人への感染の連鎖をゆっくりにする、などを健康維持のためのシステムが崩壊しないために行いましょう。

あなたの地域の健康に関する当局や政府が発令するアドバイスには十分に敬意を払い、きちんと注目しておくことを私達はすべての人に求めます。

それに加えて、免疫システムを高めるためにできることはすべて行いましょう。免疫システムの80%は内臓のバイオーム(生物群系統)ですから、摂取栄養を改善して最善の免疫機能をサポートしましょう。

ビタミンA、B、C、そして亜鉛、鉄、セレンなどのミネラルを多く含むヴィーガンフードをたくさん食べましょう。葉物の野菜、豆類、豆腐や種子類、そして穀物やナッツ、黄色やオレンジ色の野菜のほか、柑橘類の果物、ブロッコリー、トマト、豆、マッシュルーム、赤ピーマン、ショウガ、ほうれん草、ターメリック、それにニンニクなどを薬として、そして内服として摂取しましょう。

きちんと濾過された水や緑茶をたくさん飲みましょう。

検疫のために隔離されているのでないなら、毎日少しの時間は屋外に出て、ビタミンDを取り込み、母なる地球とのつながりを持つように努めましょう。

毎晩十分な睡眠を最低でも7時間から9時間はとりましょう。睡眠は健康を守ったり病気から回復したりする能力を体に蓄えるためには必須です。この静かな時間を最大限生かして社会的な活動は少なめにして、疲れたらいつでもお昼寝しましょう。

毎日最低でも15分くらいは瞑想してストレスレベルを上手に管理しましょう。ヨガアサナの練習をしましょう。シャバアサナを抜きにしてはダメですよ。むしろ普通にするより少し長めにシャバアサナしましょう。

体を動かすエクササイズは気分をあげてくれるし健康を整えてくれます。毎日ほどよい適度なエクササイズを行いましょう。適度な運動は炎症を鎮めてくれますし、体の中で感染症と闘う細胞のサポートをしてくれます。

SNSなどソーシャルメディアから離れて、コロナウイルスに関するニュースをフォローするようなオンラインに使う時間を制限しましょう。プラグを抜いて気分をゆるめることはきわめて重要だということを忘れずに。

心を高め守るため、一日のうち何回かはマントラをチャンティングしましょう。ジヴァムクティチャントブックを参照してマントラや祈りをセレクトしてください。

あなたがヨガの先生なら、練習生とつながっているための新たなクリエイティブな方法を見つけてみましょう。デジタルチャンネルを立ち上げてもいいし、ライブストリームとかレッスンを録画したりして、家にいなければならない人たちでも練習を続けられるようにしましょう。自分自身の人生を向上させたいならば他者の人生を向上させることだ、ということを忘れずに。

あなたがヨガの練習生で、いつも通ってるレッスンを受けられずにいるならば、好きなヨガスタジオや先生がデジタルレッスンを提供しているかどうか調べてみてください。スタジオや先生達の多くがオンラインの授業を提供し始めています。安全に。健康で。心からのケアで。ヨガであるように。

Mar.2020 Stages on the Path

maitrī-karuṇā-mudita-upekṣāṇāṁsukha-duḥkha-puṇya-apuṇya-viṣayāṇāṁbhāvanātaścitta-prasādanam (パタンジャリのヨガスートラ 1章33節)心の静けさを保つために、ヨギは幸せな人に対して幸せを感じ、不幸な人に対して思いやりを持ち、高潔な人に対して喜び、不道徳には無関心でなければなりません。ージヴァムクティヨガ チャントブッグ 14ページより


私たちがスピリチュアルな旅に乗り出すとき、その旅の最終目的地が何かと推測しようと試みるかもしれません。私達はブッダの悟りの話を聞いたことがあります。禅僧の突然のサトリや、聖人や賢者が我を忘れ有頂天になった話を聞いたこともあることでしょう。私達も完全に悟れると信じてその頂上に到達するために自分自身に挑戦することもできます。 「突然、私たちはグルの誰それさんのようになります。」 私たちが生きるこの時代は、達成と黄金のパラシュート(特恵的退任手当)の欲望に満ちています。多くの場合、これらは日常での「普通の」経験の範囲外にあります。これらの物語は、私たちがより深く入り込まなければ、聖人たちの例でさえもおもしろみがなく気が抜けたまま私たちには無縁になりがちです。ヨガの修練はそれを助けることができます。


達成したい特定のアーサナもあるかもしれないし、練習の目的として一連のポーズを設定したこともあるかもしれません。多くの場合、特にポーズが私たちにとって過度に挑戦的な場合、そのポーズを重視します。 「こんな練習やあんな練習、又はこんな瞑想やあんな瞑想状態をマスターしたとき、私は良いヨギ又はヨギニになります。」しかし、賢明なチベットのラマ、チョギャム・トゥルンパ(Chögyam Trungpa Rinpoche)はかつて次のように述べています。「出発点に慣れる前に、より高度なことから始めるのは愚かなことです。」
それでは、悟りへの道の出発点は一体何なのでしょうか?


マットの上だけでなく、毎日、一瞬一瞬、道を歩むための私たちの足場を見つけ、作業プロセスを開発するためにはどこから確固たる基盤を築き始めることができるのでしょうか? パタンジャリが述べている「citta-prasādanam 心の安らぎ」を培うことを私たちの世界で体験する方法として利用しましょう。愛ある親切さ、又は友情と思いやりによってのみ、私たちはに媒介者になることができます。愛情と思いやりを持ってのみ初めて鳩の羽のように自由に飛ぶことができます。自由に、私たちはエネルギーの「レシーバー」だけでなく、エネルギーの「トランスフォーマー」になります。このプロセスで、私たちの道が地球にとって並外れて相互に有益になる可能性があることに気づきます。
どうすれば自分とつながることができ、他人とどのように関係していくべきしょうか?どうすれば他の人や物事との関係を浄化し始めることができるのでしょうか? 「ラムリム Lam Rim(進むべき道の段階)」のチベットの教えによると、その最初のステップは、「目覚めた心」を意味する「ボディチッタ Bodhicitta」を生成することです(「ラムリム」の基礎は、ブッダの教えを注意深く適用することから生まれました。その多くは、11世紀の彼の死から1600年後に消えていました)。このBodhicittaは、私たちの冒険的であるスピリチュアルな道の光なのです。


私たちは自分自身を大事にし、特別な重要性を置いてとても大切にします。他人については常にそのように感じるとは限らないと反省することもあることでしょう。この不均衡と区別することを理解して、それを反転させていく必要があります。とともに人や物事との関係を浄化することができます。私達は本当に幸せな人に対して自分事のように幸せを感じることができ、邪悪な者に対して無関心であることができるのでしょうか? ボディチッタBodhicittaを来たすことは平等を意味する「サマディSamadhi」 または「サマトワム Samatwam」を最も迅速な意味として思われてきました。 ボディチッタBodhicittaによってのみ、私たちが自分自身を見ているように他の人を見ることができ、彼らのために暗闇の中を照らす灯台となれます。悲しみや恐怖の時代に彼らが何を必要としているかを知り、すべてとの親密な知識と深い心と心のつながりを培うことが可能となるでしょう。


ボディチッタBodhicittaは、私たちの解放に対する最も重要な障害の1つは私たち自身の利益を他人の利益より優先する生存本能であると教えています。 「アートマ・スネハ Atma-Sneha 」と呼ばれるこの自分が一番大事という行動は、パタンジャリがヨガスートラ2章3節で語っている第2の障害(Klesha クレシャ)に似ています。「アスミタ Asmita」は文字通り「I-ness」に翻訳されます。 「私」が他の誰よりも重要だという間違った言い方です。
広範に渡るこのうぬぼれという幻想は、「私たちが本当は誰なのか」を知らない無知から生じています。他の人や物事との関係が浄化し始めると、自分自身が宇宙の縦糸と横糸のように織り込まれていることを思い出すことが可能になります。アラン・ワッツがかつて言ったように、「これを悟ると、私たちはエネルギーで満ちることができます。」
ほんの少しの苦しみさえ望んでいる人はだれもいません。自分の行動を慎重に振り返ると、他の人に幸せを「与える」と、最高の充実感につながる可能性があることがわかります。他の人の幸せが私たちの喜びであり、他の人の悲しみが私たちの悲しみでありますように。他人に喜びを与え悲しみを取り除くことで、愛情のある親切さと思いやりが私たちの心から自然に生まれ現れるようになります。
ボディチッタBodhicittaを説明するもう1つの方法は、それを「ジヴァンムクタ Jivanmukta」の道と称することです。それはこの人生で魂の解放を達成する人になるように努力するということです。地球とそのすべての生き物の相互利益のために、この美しい道を続けていけますように。


原文:Ian Szydlowski-Alvarez翻訳:Heeki Park

2020年2月 LIFE: A CONTINUOUS MOVEMENT – RHYTHM, FLOW, & CHANGE 人生: 継続的な動き-リズム、流れ、そして変化

krama nyatvam parinama nyatve hetuh

原因は、連鎖の展開を決定づける。

パタンジャリのヨガスートラ 3章15

マインドは、その遅さよりも遅く、そして、その速さよりも速く動くように訓練しなければならない… もしマインドが、光の速さよりも速く、電磁波よりも速く、そして細胞生理機能の新陳代謝よりも遅くなることが出来たら、そう出来た時にだけ、自然の中で変化が進んでいると気付く事が出来る。この自己統制の成り行きの中でマインドはいかなる変化にも気付くこと(そして対応すること)ができる。
-シュリ ブラフマナンダ サラスワティ

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2020/1

atha yoga-anuśasanam 

アタ ヨガ アヌシャサナム

「これこそ、私が自然界で観たヨーガである」

-シャロン・ギャノン訳

/ ヨーガ・スートラ第1章1番

ヨーガ・スートラの最初の言葉は”atha(アタ)”です。”atha”とは縁起の良い言葉、良い兆しのことで、楽音を定める天からの恵の言葉です。

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2019/12 内側にある知恵の解放

ブラフマナンダム パルマシュカダム ケヴァラム ジュニャナムルティム
ドゥヴァンドゥヴァティタム ガガナサドルサム タトヴァムアシャディラクシャム
エカム ニティヤム ヴィマラム アカラム サルヴァディサクシブタム
バヴァティタム トリグナラヒタム サドグルム タム ナマミ

内側にいますグルに敬意を表します、内にいて導く光よ、それは決して終わりのない至福、最高の幸福を与えて下さるもの、他に類のない唯一のもの、最高意識の脈力、二元論を超えたもの、客観の主観も超越するもの。グルはまるで青い空、「あなたはある」という言葉で表現されるものであり、「私と父は一つです」という言葉に表されるもの、それは命の最終目標でもあり、永遠であり、純粋で、汚れのないもの、常にあなたとともにあり、すべての知恵をともに目にする目撃者であり、存在するすべての者を超えたもの、3グナ(サットヴァ、ラジャス、タマス)を超え、電子的で陽子的で、そして中性子的な力です。そんなグルに敬意の礼を捧げます。 
出典:タントラ教典およびグルストトラム 翻訳:シュリブラフマナンダサラスワティ師

主なるシヴァはこのマントラをパルヴァティにヨガを授けた後に与えています。彼は愛する妻であり教え子である彼女に、このマントラを唱えることによって、彼女が真実の解放を知り、シヴァとパルヴァティとが一つであることを理解する、と伝えています。

タントラヨガはおそらくヨガのシステム(方法・体系)においてもっとも誤解されているヨガの形式でしょう。西洋人のほとんどがタントラ(インド)のルーツとは相違があるため、タントラのことを、ゲオルグ・フォイエルシュタイン氏が言うような「ネオ・タントラ(新しいヨガシステム)」として、儀式とか神秘主義のようなものと間違って混同して西洋的な解釈で捉えているのです。タントラは紀元500年頃に出現したとされる後発のヨガシステム(体系)です。古代のヨガの伝統が「ニューエイジ」時代の動向にそった最初のものでした。タントラはカリユガの時代、つまり霊的な暗黒時代(それは私たちが生きている今という時代なのですが)に創られたものです。タントラのシステム(体系・方法)を創設してきた人たちが信じていたのは、このカリユガの時代に、より古い時代のヴェーダーの礼典がその効力を失うのではないか、ということでした。こうしたニューエイジの時代動向は、すでに確立されたものを揺るがし完全に変えようと一歩を踏み出したのです。

タントラヨガはその初めてのヨガシステムとして特に人の身体にフォーカスし、しかもかなり集中的にフォーカスして、肉体たんとらのしすとして生きている間に解放(悟り)を得るための乗り物と考えました。ハタヨガの伝統は広い解釈で言うならタントラなのです。ハタヨガプラディピカはタントラの教典なのです。タントラのシステムは人の身体と自然世界とのつながりを神とつながる深遠な方法として深く探求します。タントラが指摘するのは、もしも私たちの周りにあるすべてのものがパラムブラフマ(究極的実存つまり神)の一部であるならば、アートマン(魂)を宿す人の身体も、どうしてパラムブラフマ以外になれるというのでしょう。古い時代のヴェーダーのシステムでは、人の身体は弱く、マヤ(幻影)を求める者として捕らわれていると感じていました。タントラでは人の身体は最高のコンディションに保たれているべきであり、そうすれば神そしてグルに完全に奉仕する者になれるとされていました。この新しく見いだされたシステムは、痛みや苦痛、または喜びや至福の両方にある人の身体の内にも解放(悟り)が見いだされると指摘しています。そうした両極の経験とは単に同じコインの裏表のようなもので、つまりそれはプルシャ(普遍の全宇宙的原理)とプラクリティ(世俗的な現実)なのです。悟りはひとえにただ両極端を理解し、宇宙的意識は身体の内のDNAにも組み込まれていると理解したときだけに得られるのです。人の身体と自然界は神聖を理解するための研究所のようなもの、つまり身体はモクシャ(解放・悟り)を手にするための道具として、決して軽視できないものだと理解するための研究所であるとタントラは表現しました。

タントラヨガが常に主張するのは、求道者には生きたグルが必要であるということです。そのグルの教えや導きを通して、求道者はすべての教えは内側から湧いてくるということを学ぶのです。学びにあるものはただ神、グル、その教え子は一つであると理解しさえすればよいのです、ちょうどシヴァ神とパルヴァティとが一つであるように。ブラフマナンダムパラマでは明白に述べられていることですが、宇宙における究極的実存つまり神は内側にいるのです、またはポール・ヤコブ・デュエッセン氏の著述にあるように「創造原理はすでに全体世界において具現化されてそこにある」のです。

初期の頃のヨガシステムは自己実現に向けての方式として瞑想やプラナヤマによりフォーカスしていました。アサナはほとんど与えられていませんでした。タントラはすべてのツールを使ってグンダリニシャクティを目覚めさせ、チャクラを開きながらサハスララチャクラ、つまり内なるグル(パラムシヴァ)の鎮座する場所に到着するまでチャクラを開きながら上昇して、シヴァとシャクティとの融合を創りあげていくのです。これが科学となり目には見えない身体内でのエネルギーの動きとなりました。すべてのツールを使ってそれを行うのです、つまりアサナ、マントラ、瞑想、バクティ、プラナヤマ、礼典儀式、人としての個人的な行為、すべてがあいまって神聖な研究所である人間の身体で神との融合を得ようとしたのです。これこそがヨガ、こんにちなお私たちの多くが修練するヨガ、タントラの伝統に根ざした統合的なシステムなのです。
こうした覚醒が起きるならば、ヨギは本当の至福を自然世界の内にいながら知ることになるのです。内なる至福を肉体と精神の死を経験する必要のないタントラシステムにおいて。客観も主観も完全に具現化され褒め称えられているタントラシステム、ヨガにおいて。このように身体という縛りからの解放、生きながらの悟り、それをジヴァンムクタというのです。

翻訳:Rei Miho Ueda

2019/11 The Wild and The Moon 野生と月

Om namah Shivaya
オム・ナマ・シヴァーヤ
吉兆と慈悲深き神シヴァへの祈り、変化、再生、最も高い自我、究極の現実の支配者
(ジヴァムクティチャントブック:ページ6の27)

寒い秋の夜のことでした、ジヴァはガンジス川のほとりに座っていました。彼の長くもつれた神が落ちて神聖な川になりました。完全なる静けさの中で、彼の肌は 灰で覆われ、周りの野生の自然に溶け込んでいたので、古くからの友人の月は彼を見つけることができませんでした。シヴァは月が川の上を昇る中で両目を閉じて座っていました。彼女の反射が川の水の中で輝き、シヴァは彼女に会えて喜んでいました。彼らは1ヶ月に一度、彼女が完全な姿の満月の時に会い、生、死、宇宙のその他の動きについて話しました。

今回は月がいつもより薄暗く感じだので、シヴァは少し心配していました。

ジヴァ:親愛なる古くからの友人よ、大丈夫ですか?私が最後に貴方を見た時から、貴方は少し輝きを失った気がしますが。

月:偉大なる神よ、私は最近悲しい。私が夜に出てきた時は殆ど光が見えないのですが、最近は沢山の火を見ます。熱帯雨林は燃えていて、地球上にはなんらかの光によって照らされていない場所は無いみたいです。私はそれが止まらないのか怖いのです。貴方はついにこの惑星を破壊することに決めたのですか?それはきっと良いことかもしれません、しかしご存知のように私は常にそれぞれの世界に愛着があるので、終わりが近づくと感傷的になります。

ジヴァ:いいえ、親愛なる旧友よ。それは私ではありません。人間が熱帯雨林の大部分を焼き尽くし、山を切り裂き、海を空にして、食べるための動物を育て、そして使用するための光を作り出しています。彼らは他の生き物を食べることで、力を得て、死ぬことを防ぐと考えています。人間は死を信じられないほど怖がっています、貴方はそのことを知っていましたか?彼らは自分の小さな体に非常に執着していて、皮膚や骨よりもはるかに大きなものの一部であることを完全に忘れています。私は願っています、燃やすのではなく木から学ぶことを。木は互いに属し、死ぬとすぐに分解し、数十億の菌類や微生物にかわり、新しい生命が咲くための土を作ります。森にとって、死は生きることと同じくらい重要であり、破壊と創造は相互に関連しています。人間は彼ら自然と野生に抵抗しているようで、そうすることで地球の残りの部分に莫大な損害を与えています。

月:どうしてでしょうか?

シヴァ:私はルドラ、暴風雨神と呼ばれています。私は森を歩き回り、森の一部になり、森は私の一部となります。私は命の土で覆われ、私の髪は沢山の人間を育む川に成長します。人間は野生である自然の状態を忘れてしまった。私は野生であり、野生は自然である。彼らの足は草と土の上を歩き、皮膚は周りの空気と水を感じる為にあります。人間のその一体化しない感覚がすべての物事を自分たちの便利なように整え、変えていき彼らに支配する感覚を与ます。彼らは自然と順応することを拒否し、自然を自分達がしたいように適応させたいのです。彼らは髪を切り、芝生や木を切りました。足を靴に、体を車に乗せました。世界ではなくスクリーンに目を向け、ペットボトルに水を入れて売り買いしています。彼らは食べ物の為に海の動物を殺し、食べる動物を育てる為に森林を焼き尽くす。他の命を食べることは彼らに間違った力の感覚を与えているようで、自然をコントロールすることは生と死をコントロールすることだと考えています。彼らは加齢と死に抵抗し、そしてそれは彼らが生命にも抵抗してることを知らないのです。

月:しかし神よ、ならばなぜあなたはこの世界に終止符を打たないのですか?人類に多くの希望が残っているようには思えません。

ジヴァ:愛しき人よ、希望があるのです。常にあるのです。私は慈悲深い、私は善を信じています。全ての存在に私の一部があります。平和、静寂、思いやり、純粋な意識、全ての生き物にある本来の幸福。私は動物と自然の守護神パシュパティです。人々は私と繋がるとすぐに、これらの資質を彼ら自身でもたらします。私はヨガを教え、人々に自分自身を癒す為の道具を教えました。アーサナと瞑想を教えて、地球との繋がりを深め、心を落ち着かせました。彼らの無知、エゴイズム、嫌悪や執着、そして 死への信じられないほどの恐怖を克服する為に、私はヨガを教えました。彼ら自身と彼らの惑星を救う為の方法を与えました。

月:時々、私は貴方が破壊者だけではなく守る者でもあることを忘れます。

シヴァ:守る為に破壊します。私は無知と恐怖を破壊します。人々は私を信頼するとすぐに、生と死に抵抗することを真っ先にやめ変わるでしょう。彼らは真に成長するでしょう。
私のように、彼らは野生で激しく、自然と動物に対して慈悲深く、保護的なのです。

月:人類への信頼を失わないように私を導いてくれてありがとう。私は自分の光が蘇ってくるのをもう感じています。私が眠る途中で太陽に会ったとき、貴方が話したことを彼に伝えます。このところ、彼はここで見下ろしていたことにとても動揺しています、彼が怒っているときはいつもとても熱くなっていることを貴方は知っていますね。

シヴァと月は敬意と感謝の気持ちを込めてお互いに深く頭を下げ、月が眠りにつくと、シヴァは深い瞑想に戻りました。

本文: Martyna Eder
訳:Aiko Nagata

2019年10月マウナ(沈黙)は黄金

सत्यम्ज्ञानम्आनन्दम्ब्रह्म

Satyam Jnānam Ānandam Brahma

サティヤムジュナーナムアーナンダムブラフマ

真実、智慧、至福、絶対

ジヴァムクティ チャントブック頁4-8

平均的な人は1日に16,000の言葉を話すと推定されています。なんてことでしょう! とても沢山です!もしも私たちが時々、沈黙の誓いを立てたら、私たちのサダナはどのようなものになるのでしょうか。11年の間、スワミニルマラーナンダ(シャロンとデイビッドの最初のグル)は日々この練習をしました。つまり何も言葉を発しなかったのです。代わりに、マウニとして過ごしていた間、「無政府主義スワミ」は自分のエネルギーを話すことではなく書くことに注ぎました。世界中の政治指導者たちに向けて、彼の平和と非暴力のメッセージを届けていたのです。

 マウナは話すことを制約する神聖な訓練です。それは、これはスピリチュアルな経験が訪れることを通した規律であり、マインドの静寂によって決まって特徴づけらる意図的な沈黙を守ること、そして、音に対する感受性を高めます。続いて、沈黙の穏やかな影響が、物事をより明確に見ることの助けとなります。まるで、穏やかな湖の水に、物がそのままの状態で映るように。これによって、自分自身と自分の周りと深く繋がるようになるのです。

もし、マウナを練習することにしたら、恐らく私たちは単純に話さない事から始めるでしょう。そののち、読むこと、書くこと、そして他者とのアイコンタクトを断つようになるかもしれません。つまりは、最小限だけどマインドフルな行動への練習へとなっていくということなのです。まず最初に自分を邪魔するものを掴もうとする傾向に気づくでしょう。例えば、携帯をチェックしたい欲望や本を手に取ることや、音楽をかけて沈黙から退くことなど。これらの衝動に応対する前にこれらの主張に気付くことが出来るでしょうか。マヌアの練習中にこれらの欲望が増幅するのは、私たちのチッタヴリッティ(ぐるぐる回るマインドの活動)が突然に認知されるからなのです。私たちは1日に数万の思考を持つと推定されています。しかしそれは、私たちがその状態への気づきが邪魔されていない時だけです。

私たちが目撃者(サークシ)である時、私たちは応対するよりも観察します。これは、コメントする必要を感じていない状態で、会話において目撃者でいるという真の姿です。単純に相手が話す余地を与えるということは驚くほどに謙虚なことです。アランワッツは、真の沈黙のことを「思考するのを止め、真実を真実のまま経験すること。何故なら結局のところ、もしずっと話していたら、他の人が言わなくてはいけないことを誰のことも聴くことが出来ないのだから!」と言います。自分が一杯の時は聞くことができません。空っぽが共鳴のためのスペースを許容するのです。私たちが空っぽの時に私たちは、マーンドゥーカウパニシャッドに記述されているようなOMの音を聴くことが出来る状態になるのです。仏教徒はそれを「無」と言います。

大抵の場合、沈黙は音の無い状態と定義されます。しかし、自然科学者なら恐らく、真の沈黙は存在しないと反論するでしょう。自然界において、過剰な音の公害から来る人類学的障害は、音響環境学者のゴードンヘンプトンに言わせると、沈黙は絶滅の縁だということになるのです。もちろん、野生生物も私たちがしているように意思伝達をします。私たちが自然を観察するならば、私たちは彼女には言うことが沢山あると認識するでしょう。オーストラリアのヴィーガン活動家のジェームスアスペイは2014年の1年間「話さないこと」を実行しました。 彼は、動物への意識を上げるという自分の意図を説明すべく国営放映で沈黙を破りました。「私は話すのを止めました。何故なら彼らは話さない、と私は思ったからです。しかし、私は彼らは話していないのではないということに気づきました。彼らは痛みに泣きます。彼らは恐れに叫びます。そして、彼らがそういったことをする時は、彼らが苦しんでいることを私たちに伝えるために彼らの声を使っているのです」私たちも沈黙を存在だという違う視点からの解釈が出来たでしょう。他者と、自分自身と、あるいは自然と共に座り、彼らが何を言わなければならないのかを聞く機会だと解釈出来たでしょう。

人類の相互作用において、多くの意思伝達は言葉によってされ、単独ではありません。

事実、言葉は私たちの意思伝達においてはほんの小さなパーセンテージしか占めないのです。代わりにボディランゲージや声のトーンの方が多くを伝えると、多くの文献において、そう信じられています。私たちはこの概念を人類だけではなく、動物や自然の中に適用する事が出来るでしょうか。静かでいることは、受動的な隣人でいるという行動ではありません。そうではなく、真実を観察し、私たちが見る世界に対してどう対応するかを意識的に選択するという過程なのです。10年以上マヌアを実行したスワミニルマラーナンダでさえ、彼が目撃していた世界の不公平についての沈黙を続ける機会とはしませんでした。

私たちが話す言葉の、そして言葉を控えることの黄金率を見つけられますように。そして、それが私たち皆を、自分の内と外の平和を経験することへ、その道しるべを示してくれますように。真実を、智慧を、至福を、そして絶対を、知ることが出来ますように。

本文 サンディ キング